🌹 ホテル・カメリアの秘密の午後
💐 第1話:ロイヤルスイートの忘れ物
主人公: 橘あかり(26歳)。名門ホテル・カメリアの清掃係。目立たず、控えめだが、仕事は完璧。
相手役: 榊 湊(さかき みなと)(28歳)。カメリアの若き支配人補佐。無愛想に見えるが、実は繊細で、客室のチェックに厳しい。
カチャリ、と音を立てて、橘あかりは重厚なロイヤルスイートのドアを閉めた。今、彼女の目の前には、一夜にして豪奢な空間から、ただの空っぽの「箱」へと戻った静寂が広がっている。
床に落ちた髪の毛一本、グラスに残った指紋の曇り一つも見逃さない。それが、あかりがこのホテル・カメリアで唯一誇れる技術だった。
「1403号室。チェックアウト後の最終清掃、開始」
小さく自分に言い聞かせ、まずカーテンを開け放つ。午後の陽光が、昨日まで宿泊していた有名ピアニストの残像を払い、部屋の隅々を白日の下に晒した。完璧に整えられたベッド、磨き上げられた大理石のバスルーム。すべてが予定通り。
……のはずだった。
サイドテーブルの引き出しを閉めようとした、その時。何か固いものに指が触れた。
「あら?」
そっと引き出しの奥を覗き込むと、そこには古びた真鍮製の小さな鍵が一つだけ、まるで最初からそこにいたかのように転がっていた。ホテルの客室の鍵ではない。もっと個人的で、大切なものを守るための、秘密めいた鍵。
あかりは鍵を手のひらに乗せ、その冷たい感触を確かめた。宿泊客の忘れ物は、すぐに支配人室へ届けなければならない。
彼女は慌てて部屋を飛び出し、エレベーターホールへ向かった。一刻も早く届けなくては。しかし、エレベーターの前で、背筋が凍るような声がかけられた。
「橘さん。また何か見落としがありましたか?」
声の主は、支配人補佐の榊 湊。常に完璧を求め、社員からは恐れられている若きエリートだ。彼に立ち止まらせられる時は、たいてい清掃にミスがあった時。あかりは小さく身を竦めた。
「さ、榊様。その、忘れ物を……」
手のひらに握りしめた鍵を見せると、榊は無表情のまま、鍵に一瞥をくれた。彼の瞳は、客室チェックの時と同じように、どこか冷静で鋭い。
「それは、当ホテルの備品ではないですね。重要なものの可能性が高い。なぜ、清掃中に気づかなかった?」
その問いは、いつものように冷たかったが、その視線は鍵からあかりの手の甲に落ちた。あかりは彼の視線に気づき、慌てて鍵を握り直す。
「申し訳ありません。引き出しの奥にありまして、最終チェックの段階でようやく……」
「……結構です。すぐ私に預けてください。私が責任をもってお客様にご連絡いたします」
そう言って、榊はあかりの手から乱暴に鍵を奪おうとはしなかった。ただ、静かに、手のひらをあかりの方へ差し出した。その大きな、節ばった手が、鍵の行方を待っている。
あかりは緊張しながら、そっと鍵を彼の手に乗せた。
「あの……その鍵、もしかしたら、とても古いトランクの鍵かもしれません」あかりは、咄嗟に口を開いた。普段は絶対に余計な口を挟まないのに。
榊は鍵を握りしめたまま、あかりの目を見つめ返した。彼の無愛想な表情に、一瞬だけ、微かな好奇心のようなものが浮かんだように見えた。
「なぜ、そう思う?」
「……鍵の裏側に、小さく**"C.M"**と彫られているんです。古い映画で、旅人が持っていたトランクの鍵に、同じような装飾がしてあったので……」
あかりは自己紹介のように自分の趣味を口走ってしまったことに後悔したが、榊は何も言わず、ただ真鍮の鍵をじっと見つめている。そして、小さく息を吐いた。
「……そうですか。ご忠告、感謝します。橘さんの観察眼は、清掃だけでなく、物事の本質にも及ぶようだ」
彼は鍵をポケットにしまうと、無言でエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる寸前、あかりは見た。
彼の口元が、ほんの少しだけ、微笑んだように見えたのを。
それは、完璧なホテルの清掃係であるあかりが、初めて客室の隅ではなく、誰かの心の隅に触れた瞬間だったのかもしれない。
【第2話へ続く】
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