【叙事詩】トト神の書と王家の悲劇 ①『老神官の誘い』
私はメルセゲル。
テーベの岩山に身を巻き、
千の王の眠りを守るコブラの女神である。
私は墓を荒らす者を毒で退け、
砂の結界を張り、
死者の静寂を千年のあいだ守ってきた。
だが――ネネフェルカプタハはそれを破った。
私が張り巡らせた蛇の結界を、
王家の血を持つ若き書記は踏み越えた。
彼には妻イフウェレトがあり、
まだ名を呼ぶことも覚えぬ幼子メルイブがいた。
それでも彼は、神の書を求めた。
トトが自ら記し、
万物の扉を開く禁断の書――
世界の声を聞き、
冥界を地上の姿のまま歩む力を秘めた書を。
その瞬間、彼の運命は私の守る墓所から離れ、
ナイルの流れへと委ねられた。
ナイルは与え、奪い、
そして沈黙のうちにすべてを呑み込む。
ネネフェルカプタハの悲劇は、
その流れの中で始まったのだ。
第一節:老神官の誘い
メンフィスの空は静まり返り、
プタハ神殿の白い柱が朝の光を受けて輝いていた。
ネネフェルカプタハはその前に立ち、
霊堂に刻まれた神々の言葉を
胸の内で繰り返していた。
若き王子の心には
書記としての誇りが、
まだ誰も知らぬ渇望が渦巻いていた。
その背後で、突然笑い声が響いた。
年老いた神官がゆっくりと歩み出る。
その姿は何百年も生きてきたかのように老い、
しかし瞳は何千年も世界を見てきたかのように
底知れぬ光を宿していた。
「何がおかしい」
王子は不快さを隠さず言った。
「王子よ、これは何の価値もない」
神官は囁くように言った。
「トト神が自ら記した書の在処を、私は知っている」
トト神の魔法の書には
二つの呪文が書かれている
一つは万物の声を聞く呪文。
そして、冥界でも地上の姿のまま歩む力。
その言葉は、
砂漠に吹く熱風のように王子の胸を揺らした。
私はその瞬間を見ていた。
神殿の影で、妻イフウェレトが
すべてを見つめていたことを。
彼女は感じ取ったのだ。
トト神の力が死と繋がり、
魔法が災いを招くことを。
老神官が求める代価は銀と穀物。
それもおびただしい量であった。
だがネネフェルカプタハの心は揺らがない。
代価を惜しまず、
老神官と共に魔法の書の在処へと歩み始めた。
まかりならぬの道は、
やがてナイルの深みに沈む運命へと繋がるのであった。
第二節に続く
本叙事詩は、大城道則氏『神々と人間のエジプト神話』に収められた
「セトナ・カエムアスとトト神の魔法の書」をもとに、
守護女神メルセゲルの視点から再構成した創作作品です。
