【短編小説/ファンタジー】ある奴隷の訴え

ああ、司教様、聞いてくださいませ、この私め、憐れな奴隷の女にございます。身体が不自由なご主人様のため、八年ばかりお仕えしてまいりました。

八年前と言えば、帝国がその版図を伸ばすこと西に東、戦に次ぐ戦、誉れ高き武将のチャリオットや兵士たちのファランクスが、隣国を次々に飲み込んでいた時代でございました。
ご主人様は戦にて武功を立てましたが、ひどく負傷され、多額の報奨金を得て、若くしてご隠居された身分でございました。

戦場から故郷へ引き揚げてきたご主人様は、足を悪くしてしまったため、身の回りの世話をする奴隷を買い求めに、おぼつかない足で市場へ向かったのでございます。

市場には、各国から攫われてきた奴隷が、それはもうひしめいてございまして、この私めもそう、年端のいかない少年奴隷と、肌の黒い男の奴隷に挟まれて、膝をかかえて石畳に座っていたのでございます。日差しにさらされた地面はそれはもう熱くて熱くて、せめて筵の一枚でも敷いてもらえたならと、そればかり考えておりました。

私めはじぃっと、奴隷たちを品定めする客たちの顔を眺めておりました。あれはおそらく漕ぎ手を必要とする船主であろう、あの者は娼館の遣り手婆であろう、あそこの客は道楽相手を求めに参ったか……。

ご主人様はその中に埋もれるように佇んでおりました。杖をついた身体は日に焼け、土埃に汚れておりました。どこから見ても、風采の上がらない、有り体に言えば貧乏くさい、そんな男でございます。

ご主人様の目の前に、ひときわ美しい女奴隷がおりました。髪は金色で、肌は白く、物憂げに伏せられた瞳。たたずまいにもどこか品がございました。もしかしたら、隣国の貴族の娘でも攫われてきたのかもしれませぬ。着ている服は襤褸でございましたが、よくよく見れば、もとは仕立てのしっかりした衣服であったのだろうと思われました。

その娘には、金貨5枚ほどの値段がついておりまして、遣り手婆がチラチラと視線を投げているのが分かりました。この娘を仕込んで売り出せば、すぐにでも客がつくことでしょう。金貨5枚など、あるいはすぐに稼ぐかもしれません。
他にもその娘を望む客はいるようでした。

ご主人様はといえば、その娘の美しさにぽうっと見とれておりました。ご主人様の貧相な服の下には、たんまりと報奨金の詰まった財布が隠されているのでございます。この高価な奴隷を、買おうと思えば買うことができる、そして、その美しい娘を手元に置き、身の回りの世話だろうが、夜伽だろうが、ご主人様が望めば、なんでもさせられるのでございます。

美しい奴隷が、ふと目を上げ、ご主人様のほうを見たようでございました。
瞳は物憂げなまま、薄く微笑んだのが見えました。それまでにこりともしなかった彼女が、まるで女神でも降り立ったかのように、笑ったのでございます。

するとご主人様は、どうしてか、ふいと顔を背けておしまいになりました。
やがてご主人様は、私の前にやってきました。私めは、ご主人様が杖でコツコツと地面を突きながら、考え事をしているのを、ただただ眺めるばかりでございます。
隣にいる少年奴隷の頭に寄ってきたハエが、ぶんとご主人様の肩に止まります。
そのハエが再び飛び立つまで、ご主人様はじっと考え込んでおられました。

そして、結局のところ、ご主人様は、銅貨4枚で私めを買い求められたのです。
私めはご主人様の身体を支えながら、初めてその家へ帰りました。
そこからご主人様にお仕えする日々が始まり、私めはそれはもう、一生懸命に働きました。家事や肉体労働はもちろんのこと、近所への使い走り、手紙の代筆、経理まで。

……私め、文字は読めるのでございます。算術も。出身は東方──と言えばお分かりになりますでしょうか。この国に連れてこられる前は、寺院で働いておりました。神職ではございません。しがない飯炊き女でございます。私めの国では、下働きだろうが、門前の小僧だろうが、文字は当たり前に読めるのでございます。ご主人様が手紙をお出しになるのも、私めがいるからでございます。ご主人様のお手紙は、様々な人脈を生み、地位ある御方が家に来訪することも増えました。

ご主人様が、ときどき娼館に出かけていくことは知っていました。きっと好みの娘でもいたのでございましょう。私めはこの通り、容姿には恵まれませんで、ご主人様のそういったお望みをかなえて差し上げることはできませんでした。

あるとき、ついに、ご主人様が女をひとり、連れて帰ってこられました。どうやら病に身を持ち崩した娼婦を哀れんで、身請けしてやったようでございます。

ああ、その女は、あの日市場にいた、美しい奴隷でございました。
彼女の名前はシレーナ。娼館では髪の色にちなんで「キンポウゲ」と呼ばれていたようでございます。

シレーナは痩せた身体を寝台に横たえさせられ、はじめに果物の汁と、麦の粥、チーズを与えられました。
私めも、ご主人様の言いつけ通り、彼女をかいがいしく介護いたしました。やがてシレーナは、私めの作る魚介の蒸し焼きや、煮込んだイチジクなどを好んで食べるようになりました。

さて、シレーナの病はよくなりませんでしたが、夜には、ご主人様と過ごすようになりました。ご主人様が、彼女を床に呼ぶのでございます。

私めは、おやめになったほうがよろしいと、一度だけ、いいえ、二度ほど、申し上げました。
二人の色づいた声が、聞こえてくるのでございます。
素知らぬふりをするのが私めの常でございますが、一度だけ、どうしても好奇心に抗えず、こっそり部屋を覗いてみたことがございます。
なんとも、官能的でございました。同時に、ひどく虚ろな気分にもなりました。
享楽にふける二人の姿。床に散らばった衣服は、上質な絹織でございます。そんな服が着られるのも、ご主人様の報奨金を元手に始めた商売がうまくいっているからで、店先に立つのは私めでございます。私めは正直者でございますから、売り上げを盗んだりなどいたしません。帳簿はいつも正確に記録されております。ですから、ご主人様がいったいいくらお使いになったのかも、すべて知っているのでございます。

生活が豊かになるのは素晴らしいことです。
余裕ができたことで、ご主人様はますますシレーナを愛するようになりました。
愛し合う二人を眺めているのも、そう悪くはございません。
私めの肉体がほのかに熱を帯びようとも、頭のなかが悶々としようとも、家の中が平和であるということは、何よりも代えがたい、尊いことなのでございます。ただ、すこし寂しかったのはたしかでございます。

ですが私めはシレーナのように、ご主人様とまぐわいたいだなどと、これっぽっちも考えておりませんでしたので、むしろシレーナがご主人様の妻として、そっちの相手をしてくれるのであれば、ありがたかったのです。

そうして年月が過ぎまして、そう、三日前、シレーナの身体を蝕んでいた病が、ついに彼女を殺しました。
病は、ご主人様の身体にもうつっておりましたので、数ヶ月もすれば、いやあるいは数週間で、ご主人様もお亡くなりになるでしょう。

ご主人様は、不幸の底におられます。

金庫には、私めが商売で稼いだ金貨がある。

家は増築して広く快適になり、中庭には噴水がございます。

知識人や政治家との交流も増え、ご主人様も名士の仲間入りを果たされました。

ですが、今、書斎で、ご主人様は詩を書いておられます。
そう、私めが文字をお教えしたのでございます。

愛する人を失った悲しみ、この世はなんと儚いことかと。
だが、愛は尊い、不滅だと。

さあ、司教様、人間を愛することは尊いことですよね?

愛は不滅でございますね?

でも、私めが必死に働いて、ご主人様の財を蓄え、知識を広げて差し上げ、社会的な地位を押し上げても、どうやら全く尊いことではなかったようなのです。

愛のない世界は味気ないだなどとほざいておられます。

ご主人様がすでに用意している遺言状に、財産について書かれておりました。

好きにしろ、と。

教会へ寄付するなり、自分の懐に入れるなり、好きにするが良いと。

度量が大きいことですね。

ところで私めは、奴隷市場でのあの日、なぜご主人様がシレーナを買わなかったか、分かるのでございます。

シレーナはいかにも高貴な女でございました。
彼女には、この国のものではございませんが歴史や音楽などの教養がございました。話す言葉も、それは知性がにじむものでございました。
ご主人様は、よせばいいのに、ご自分と比べてしまわれました。
銅貨4枚の奴隷に文字を教わることはなんとも思わないのに、金貨5枚の奴隷が語るような、美しい音楽や歴史の世界を拒絶したのでございます。
ですが、やがてご主人様は財産を蓄え、このあたりでは誰もが知る名士となりました。
反対に、娼館に買われたシレーナは、惨めな身分に身を落としてございました。

ご主人様は、シレーナを憐れみました。
彼女の美しい肉体が、夜の営みに疲れ果て、病を得たことを、憐れんでおられました。
やはりあのとき、自分が買ってやれば良かったと、嘆くのでございます。
シレーナが家に来てから、ご主人様は償いのように、毎晩のように彼女を愛しました。
でも彼女の口から、彼女の愛する音楽や歴史や文学の話が出たことはございません。

さあ、司教様。司教様がたてまつる神様が、人間の愛を説き、逆に贅沢や利益を嫌っていることは、私めも存じております。

その上で、問いたいのです。

私めのしてきたことは、価値のない、愛の前には投げ捨てられるような、そんなものだったのかと。


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