尾形光琳〈紅白梅図屏風〉
琳派の巨匠として、国内外で高い人気を集める尾形光琳。
晩年に制作された〈紅白梅図屏風〉は、彼の美学と技が結集した傑作であり、〈杜若図屏風〉と並ぶ代表作として位置付けられている。
この作品は春の風景を独自のデザイン感覚のもとに描いているだけではない。基盤には、先人・俵屋宗達への光琳の敬意と、彼を乗り越えようとする思いが存在している。それ故に、「琳派」のあり方を象徴する一枚と言っても過言ではあるまい。
今回は、この〈紅白梅図屏風〉の誕生にいたるまでの経緯を辿ると共に、作品の魅力に改めて迫ってみたい。
①俵屋宗達
17世紀初頭、徳川幕府が開かれたことによって、政治と経済の中心は東の新興都市・江戸に移っていった。
対して、古くからの都だった西の京では、天皇を中心とした公家や上層の町人たちによって、かつてこの地で栄えた王朝文化の復興と再生が行われるようになった。
その役割を担った一人が、琳派の初代として位置付けられる俵屋宗達である。
宗達の生没年やどのような生涯を送ったかについて詳細はわかっていない。恐らくは上層町衆の家に生まれ、「絵屋」として扇や屏風、料紙を扱っていたと推測されている。特に「俵屋の扇」は、当時の京で高い評判を得ていたことが仮名草子『竹斎』に記されている。
そんな宗達の名が史料に最初に確認できるのは、1602年である。福島正則の命令で行われた平家納経の修復に参加し、3巻の表紙と見返しを描いたと見られている。
また、当代一流の文化人であり、後世には「寛永の三筆」の一人として数えられた本阿弥光悦の書巻に下絵を描き、〈鶴図下絵歌巻〉などいくつものコラボレーション作品を生み出した。

1620年代に、法橋の地位を朝廷から授けられてからは、公家や上層町衆を顧客に主に金屏風を手掛けていく。
そのような中で生まれたのが、代表作〈風神雷神図〉である。

風神雷神は、風や雨などの自然現象を神格化した古代インドの神で、仏教に取り入れられると仏法を守る役目を担うようになった。それが日本に伝わり、仏教美術や縁起絵巻などの中で表されるうちに、日本化していった。
この風神雷神という「古典的モチーフ」を、宗達は二曲一双の屏風の中に大きく描き出した。金地で塗りつぶした背景に、一つのモチーフを大きく描き出す手法は安土桃山時代に狩野永徳や長谷川等伯らが用いた「大画様式」を連想させる。
が、宗達は風神雷神を画面の端ギリギリに寄せ、衣や太鼓の一部を画面外にはみ出させる一方、真ん中に何もない空間を設けた。
こうすることで、遥かな天上というスケールの大きな舞台で、画面外から飛来したばかりの二神がにらみ合うという緊張感溢れる場面を生み出した。
このように、宗達は自分が生まれる数百年前のモチーフを、当代風の技法を用い、新たな解釈を加えることで新たな命を吹き込んでみせたのである。
そして風神雷神のモチーフは、宗達の美を慕い、受け継いだ絵師たちにとって「試金石」となっていく。
その最初の一人が尾形光琳である。
②宗達と光琳
17世紀半ばに生まれた尾形光琳は、俵屋宗達の孫世代にあたる。
二人の間に直接面識があったとは思われないが、彼の生家・雁金屋は本阿弥光悦の親戚筋にあたり、家には光悦の書や宗達の作品が数多くあった。
そんな彼が30代で絵師を志すにあたり、当時の画壇の主流だった狩野派だけではなく、宗達の作品を手本に学ぼうとしたのは自然な流れと言えるだろう。
彼の努力は実を結び、1701年には法橋に叙せられ、さらに〈燕子花図屏風〉のような名作をも生み出した。
やがて京で公家や町人を顧客として活動することに限界を感じた彼は、1704年秋に江戸へと向かう。
そこでは津軽家や酒井家など、いくつかの大名家の屋敷に出入りし、特に酒井家からは扶持ももらっていた。
大名たちとしては、京の雅やかな美の伝統を受け継ぐ光琳の絵に、幕府の御用絵師である狩野派とは異なる魅力や新鮮さを見いだしたのだろう。
しかし、もともと裕福な商家の次男として気楽に育った光琳にとって、大名仕えは窮屈極まりないもので、1709年には京に戻ってしまう。
住み慣れた京で、光琳は大名たちのために多くの金屏風作品を生み出していく。その際に参考にしたのが、光琳にとって原点とも言える俵屋宗達の金屏風作品だった。
光琳は、宗達の作品と改めて向き合い、模写したが、全てをそのまま写したわけではない。時には自分なりのアレンジを加えるようにもなっていた。
その一つ〈風神雷神図屏風〉を見てみよう。

この作品で、光琳は、宗達の描いた二柱の神の姿かたちをほぼ忠実に写し取っている。が、緑や朱、群青などを用い、よりカラフルな画面を作り出した。足元の雲も黒々としたものに変え、二神の存在を引き立たせている。
また、二神の位置を宗達の原画よりも下にし、全体が画面内におさまるようにし、さらに両者が互いを見つめるよう目の表情にも手を加えた。
すでに50代に入っていた光琳は、絵師としてもキャリアを積み、独自の画風を確立していた。
そんな光琳が、自身の原点でもある宗達に立ち返り、「模写」という形で改めて向き合い、その画法をたどった時、何を見いだしただろう?
宗達の技や工夫に改めて感嘆すると共に、「なぜこのように描いたのか」という疑問や批判、「自分ならこうする」などのアイディアがわき出てきたのではないか。
それら自分の「心の声」とも言うべきものに耳を傾け、作品としてアウトプットしたのが、光琳版の〈風神雷神図屏風〉と言えよう。
そして、「実践」を通して学んだ成果は彼の血肉となり、新たな作品の誕生へとつながっていく。
③〈紅白梅図屏風〉

〈紅白梅図屏風〉は、〈風神雷神図屏風〉と同じく二曲一双の屏風絵である。
中央の大きな水流を挟み、大きな紅白の梅の樹が対峙している。どっしりとして苔むした幹から枝が奔放に伸び、その先にはかわいらしい梅が花を咲かせている。
〈風神雷神図〉が天上の世界を描いたものならば、〈紅白梅図〉は地上の早春の風景を表している。
梅はもともとは中国原産の植物で、春を告げる花として漢詩にも読まれてきた。奈良時代の日本にもたらされると、梅は「舶来」の花として珍重されるようになる。『万葉集』には梅を詠んだ歌は110首以上を占め、桜の歌の2倍以上になる。
「水のほとりの梅」というモチーフも、やまと絵の伝統の中に存在し、受け継がれていた。
光琳も梅の画題が好きで、団扇絵や陶器の絵付など多くの作品で扱っている。
そんな彼が晩年に手がけた〈紅白梅図〉では、宗達の〈風神雷神図〉に対するオマージュも込められていると考えられている。
その根拠が、全体の構図だ。
メインモチーフである紅白の梅樹を、光琳は風神雷神同様に画面の端ぎりぎりに配置している。
左の白梅は幹の根本と、大きく下降した後、地面すれすれで折れ曲がり再び上へと伸びていく枝ぶりの一部のみが描かれ、樹全体の大きさ、枝の広がりぶりは見る者の想像に委ねられる。幹は苔むし、樹が重ねてきた長い年月を彷彿とさせる。
一方、右の紅梅は、白梅に比べるとほっそりとして若々しく、枝のしなり方も柔らかい。白梅とはあらゆる点で対照的だ。
また、〈風神雷神図〉で二神の足元の黒雲に使われていた「たらし込み」の技法が、〈紅白梅図〉では梅樹の幹に使われている。「たらし込み」とは、絵の具が乾かないうちに別の色の絵の具をたらして滲みの効果を出す手法で、光琳は樹のゴツゴツした質感を表すのに利用した。
〈風神雷神図〉では二神の間には何も描かれなかったが、光琳は中央に大きな水流を配置した。意匠化された水流は、屏風として立てられた時、上から下へと流れ落ちるような動感を生み出す。
紅と白。「自然風」と「意匠化」。「静」と「動」。
「水辺の梅」という伝統的なテーマのもと、あらゆる対照的な要素が組み合わさり、一つの「調和」を成す様は、「音楽」に喩えられるかもしれない。
宗達をはじめ、先人たちから学んだ成果を下敷きにしつつ、独自の美学を反映させたこの作品は、光琳の約20年の画業の集大成、最高傑作という言葉がふさわしい。
光琳は1716年、58歳で生涯を閉じる。その約半世紀後、かつて光琳が仕えた姫路藩酒井家で一人の男の子が生まれる。後の酒井抱一である。
江戸の大名屋敷で生まれ育った抱一は、30代頃から光琳に私淑し、研究を始め、やがて独自のアレンジを加えた画風を確立。「江戸琳派」の祖となった。また、光琳没後100年にあたる1815年には、光琳百回忌として法要と作品展を開いた。この時に展覧会図録として『光琳百図』を制作し、光琳を広く知らしめることにも貢献している。
1873年には、光琳の〈紅白梅図屏風〉は海を渡り、ウィーンの万博に展示された。会場で作品を見たクリムトは大いに感銘を受け、〈アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I〉など黄金様式の作品を生み出すことに繋がったと言われている。

琳派の名は、尾形光琳に由来するが、「琳」という字には美しい玉や玉が触れ合って鳴る音という意味がある。
宗達も光琳も、直接教えを乞うことはかなわない先人たちの作品に感銘を受け、その「感動」をエネルギー源として、ほぼ手探りでその技や表現を学び取り、自分なりのアレンジを加えた上で新たな珠玉の作品(オリジナル)を生み出した。
そのプロセスはまさに玉と玉が触れ合う音であり、時間を越えて、今この瞬間もどこかで脈々と受け継がれ、新たな珠玉が生まれようとしているのかもしれない。
