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酒井抱一<夏秋草図屏風>~江戸琳派の誕生

京で宗達によって始められ、光琳が発展させた「琳派」の芸術は、光琳の死から約100年経った19世紀初頭、はるか東の江戸の地で新たな花を咲かせることとなる。
その中心人物の名は、酒井抱一。
抱一は、先人2人とは生まれも育ちも全く異なるが、光琳の芸術に惹きつけられるものを感じ、熱心に研究した。そして自身の美意識を加味しながら独自の画風へと発展させ、「江戸琳派」の祖となった。
一方で、光琳の作品図録を自ら作るなど、尊敬する光琳の芸術を人々に広く知らしめることにも力を尽くした。
今回は、抱一の原点と彼の代表作であり、美学の結晶とも言うべき〈夏秋草図屏風〉誕生までのプロセスを追うことで、江戸琳派の魅力と抱一が果たした役割に迫ってみよう。

①酒井家の風流公子

酒井抱一は、1761年、姫路藩主・酒井雅楽頭家の江戸屋敷に生まれた。
酒井雅楽頭家は、譜代大名の中でも筆頭に位置づけられ、何人もの老中や大老を輩出した名門だった。代々の当主は文化に対する関心が高く、抱一の同母兄で18歳で藩主となった忠以も、茶の湯や絵をはじめ30種類以上もの技芸や武術を嗜む趣味人だった。
忠以はしばしば趣味を同じくする大名仲間や文化人たちを招き、屋敷は小規模な文化サロンのようになっていた。
抱一も、次男という気楽な立場もあり、兄の庇護のもと、様々な趣味を嗜みながら自由気ままに日々を送っていた。
市井の文化にも関心を寄せ、吉原に出入りしたり、狂歌界の大物・太田南畝らとも交流。蔦屋重三郎が企画し、歌麿が挿絵を手がけた『画本虫撰』にも、「尻焼猿人」の名前で作品が掲載されている。

喜多川歌麿、<蜂、毛虫(『画本虫撰』より)>、1778年、メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)(出典:https://www.metmuseum.org/art/collection/search/37283)


だが、抱一が最も力を注いだ「ライフワーク」とも言えるのは、絵と俳諧だった。
絵は武家の習わしとして狩野派の手ほどきを受けたのをはじめ、屋敷に出入りしていた宋紫石親子から清の画家・沈南頻風の写実的な花鳥画を学んだ。更には、歌川派の祖である歌川豊春にも師事し、馴染みの遊女をモデルにした肉筆美人画にも挑戦している。
俳諧は最初は江戸座の馬場存義に入門したが、やがて師系を遡って宝井其角(芭蕉十哲の一人)に私淑するようになった。10代から1828年に亡くなるまで詠み続けた句稿は、後に全10冊の自筆句稿『軽挙館句藻』としてまとめられ、現在は静嘉堂文庫美術館に所蔵されている。
このように伝統的なものから最新のものまで幅広い画法を学んだ経験と、俳諧を通して培った季節の移ろいに対する鋭敏な感覚は、後に絵師として独自の画風を切り拓く礎となっていく。

②光琳への傾倒

1790年、理解者でもあった兄・忠以が亡くなったことで、屋敷での気ままな生活は終わりを告げた。
酒井家の屋敷を出た抱一は、37歳で出家して武士の身分からも離れる。
それと前後して、抱一は尾形光琳の作品に傾倒していくようになる。
17世紀後半から18世紀初頭に活躍した尾形光琳は、抱一が生まれた時には既に亡くなっていたが、江戸には作品が多く残っていた。光琳が一時期仕えていた酒井家にも作品があり、兄・忠以の茶会で使われたこともあった。
光琳の画風の大らかさや自由さに惹かれた抱一は、光琳の作品の研究に力を注いだ。
そして光琳の没後100年にあたる1816年6月2日、その集大成とも言うべきプロジェクト「光琳100年忌」を開催する。
根岸の自宅で光琳の法要を営み、近くの寺では、実家の酒井家をはじめ、自身の交友関係を活かして集めた光琳の作品約40点の展覧会を開いた。さらには展覧会図録『光琳百図』や、宗達や光琳ら「緒方流」の絵師たちの画伝や落款をまとめた『緒方流略印譜』を刊行した。
これらの企画は、尊敬する光琳の功績を称え、大いに知らしめると共に、抱一自身を光琳ら「緒方流」の後継者として位置づけ、アピールする目的もあったと考えられている。

酒井抱一、<光琳百図>、1815年、メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)(出典:ウィキペディア)

百年忌の開催は、抱一にとってそれまで知らなかった光琳の作品とも間近に接する機会ともなった。
イベントと前後して、抱一は光琳の作品をいくつも模写している。
〈八つ橋図屏風〉もその一つだ。

尾形光琳、<八つ橋図屏風>、1709年以降、メトロポリタン美術館(パブリックドメイン)(https://www.metmuseum.org/art/collection/search/39664)

〈八つ橋図屏風〉は、光琳の代表作〈燕子花図屏風〉と同じく『伊勢物語』の第9段「東下り」に取材した六曲一双の屏風だ。
花だけを描いた〈燕子花図屏風〉に対し、〈八つ橋図屏風〉では、橋が画面をジグザグに横切るように配されており、実際に屏風を立てると、この橋が画面に立体感を与え、見る者に奥行きを感じさせる。
作品を模写するにあたり、抱一は基本的な構図やモチーフは踏襲しつつも、自分なりのアレンジを加えた。


酒井抱一、<八つ橋図屏風>、19世紀、出光美術館

まず、屏風の横幅を広げた上で燕子花の花の数を130本から80本へと大きく減らした。これによって空間を広く取り、すっきりした印象にした。このような余白を活かしたデザイン構成はバランスを取るのが難しいが、抱一は見事にクリアしている。
橋には緑青を塗ることで水に濡れた苔を表現し、橋杭を斜め向きに配することで、より現実に近づけた。
背景の金地は、絹地に金箔を貼った上に金泥を塗ることで、光琳作品よりも明るく輝くようにした。また、花や葉の色も白系の絵の具を加えることでより明るくし、全体を軽やかな印象に仕上げている。

この他にも〈波濤図屏風〉など光琳の作品を数多く模写していくことで、抱一は光琳の技と美学を学び、吸収すると共に自分の美意識についても再確認していった。
ただ描かれたままを真似るのではなく、そこに自分のエッセンスを加えていくことで、抱一は少しずつ独自の画風を作り上げていく。
それは、洒脱で粋な「江戸琳派」の始まりでもあった。

③〈夏秋草図屏風〉誕生

1821年、抱一は時の将軍・徳川家斉の父・一橋治済の依頼を受け、光琳の〈風神雷神図屏風〉の裏に新たな作品を描くこととなった。
憧れてやまない光琳に対し、どのような絵で挑むか。
抱一が出した答えこそ、〈夏秋草図屏風〉である。

尾形光琳、<風神雷神図屏風>、18世紀、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)
酒井抱一<夏秋草図屏風>、1721~22年、東京国立博物館(パブリックドメイン)(出典:Wikipedia)

光琳の〈風神雷神図屏風〉は、はるか天空で睨み合う風神と雷神を金地に描いている。
対して抱一は、月光を表す銀地の上に地上の草花を描いたのである。
描くにあたっては、大いに趣向を凝らした。
例えば、雷神の裏にあたる右隻には、雨に打たれてうなだれる百合や昼顔などの夏草を配し、夏の夕立を表現した。上部には地面にたまった水が流れ出す様も描かれている。
対して、風神の裏にあたる左隻に描かれているのは、秋の情景だ。ススキや葛、藤袴などが風神の引き起こした強い風によって大きくしなっている。宙には紅葉した野葡萄の葉が舞っている。大きく取られた余白は銀地の輝きとも相まって、秋のひんやりした空気と清かな月の光とを見る者に感じさせる。
このような季節感の表現、自然の一瞬を切り取る観察力は、俳諧を嗜んできた抱一ならではのものだろう。
金地の屏風のような華やかさやインパクトはないが、それがかえってしっとりとした情感を生み出すことにつながっている。

二隻を並べることで、夏から秋へと季節の移り変わる様が表される。
しかも、表の〈風神雷神図屏風〉と対になる要素を盛り込むことで、2つの作品は調和し、1つの大きな作品をなす。
その様は音楽のセッションにも例えられるだろう。
抱一は、自分が磨き上げてきた技と美学の全てを注ぎ込んだ〈夏秋草図屏風〉によって、尊敬する光琳への挑戦とオマージュを同時に成し遂げたのだ。

王朝文化のDNAを受け継いだ宗達・光琳の絢爛豪華な京琳派。
そこに繊細さや季節感を盛り込み、再解釈したのが、抱一の江戸琳派だ。
抱一の作り出した美は、鈴木其一ら弟子たちによって受け継がれ、琳派の伝統は明治までつながれた。
また、抱一が晩年まで刊行に取り組んだ全3巻からなる図録『光琳百図』は、海を越えて広まり、19世紀ヨーロッパのジャポニズムにも影響を与えた。
現在でも、琳派はその華やかな表現や斬新なデザイン感覚で高く評価されている。
このような後世への影響力の大きさを考えると、酒井抱一はまさに宗達・光琳に次ぐ「第3の巨匠」だったと言えよう。


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