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『九条の大罪』と『みいちゃんと山田さん』を見て考えたこと――自分の中にギャルを持て

「居場所を得ること」は本当に救済か

Netflixで『九条の大罪』を見た。 第2・3話の「弱者の一分」は、軽度知的障害のある青年・曽我部のエピソードだ。

彼は反グレの金本に利用されている。身代わりで刑務所に入り、出所後も大麻の配達をさせられる。残酷なのは、金本が彼を「脅して」いるわけではない点だ。曽我部はただ、誰かに認められ、必要とされたかった。金本はその欲望を正確に突き、わざとらしく彼を頼り、時に助ける。 曽我部の悲劇は、「社会に入りたい」という純粋な渇望を、悪意に利用されたことにある。

この話を見て、同じく知的障害をテーマとする漫画『みいちゃんと山田さん』を思い出した。キャバクラで働くみいちゃんが仕事や人間関係に苦戦する様子が描かれるが、そこにはある種の圧迫感がある。「うまくいかない様子」を描くことは、裏を返せば、そこに適合し「うまくやること」が正解だと突きつけているようにも見えるからだ。

この2つの作品は、共通して重い問いを突きつけている。
「社会の輪に入ること」は、本当に救済なのか。それとも、別の檻への移動に過ぎないのか。

誤読されてきた「ギャル」——神話から人間へ

ここで少し遠回りをする。
「オタクに優しいギャル」というジャンルについてだ。

この流行のジャンルの構造について「ギャル(陽キャ)という上位存在に承認されることで、初めて生存を許される宗教的救済だ」という批判を見たことがある。
これは自立ではなく、マジョリティからの慈悲や依存に過ぎない、ということだ。

だが、僕はその読み方に異議を唱えたい。
ギャルは神ではない。彼女たちもまた、ある種の「異端者」だったはずだ。

現在の文脈では、ギャルはスクールカーストの上位に君臨する「強者」として描かれることが多い。
しかし、もともとは派手な外見や独自の美意識は、学校や社会の規範から逸脱した存在であった。

だとすれば、この「オタクに優しいギャル」の構造は「神による救済」ではなく、「異質者が異質者を認めている」と読み直せるはずだ。

それぞれ別の方向にはみ出した者同士が、同じ地面に立って「それでいい」と言い合っている。弱者が強者に縋(すが)るのではなく、異端が異端と手を取り合う。この「対等なはみ出し者同士の共鳴」こそが、この記事の核心だ。

「成長」という名の矯正——青春漫画の同化圧力

『スキップとローファー』や『君に届け』のような良質な青春漫画においても、構造的な罠はある。
内気な主人公が陽キャのグループに合流し、「普通」の青春を手に入れるプロセスが「成長」として描かれる。だが、これは「マジョリティへの最適化という名の矯正」ではないだろうか。

もちろん、社会性を得ることに価値はある。だが、「社会性=マジョリティへの適応」という等式が、あまりにも無批判に前提とされていないか。

ここで陰キャの一つの可能性として、格闘漫画『レッド・ブルー』を挙げておく。この作品は、主人公の陰鬱さはそのままに突き進む道を肯定している。変わり方のベクトルが、周囲への最適化ではなく、「自分自身の深化」に向かっている。この違いは決定的だ。

「理解してあげる」という暴力

『ルリドラゴン』や『尾守つきみと奇日常。』のような、異種族が学校に馴染もうとする物語を、僕は発達障害や境界知能のメタファーとして読んでいる。

どちらの作品も「普通じゃないあの子を、どうやって普通として扱うか」といった葛藤を抱えている。
ここで気になるのは、周囲の「普通に接してあげる」という善意だ。
それは裏を返せば「普通ではない状態は不十分だ」という評価が内包されている。
異質さを消して普通に溶け込ませることと、異質さはそのままに共に生きることは、似て非なるものだ。

不登校支援において「学校復帰」を唯一のゴールに設定することも、同じ構造だと思う。
支援側の善意は疑わないし、学校でスキルを獲得すことは、生存のための武器を手に入れることだ。
しかし、「システムへの再適応」を強いるとき、そのシステム自体が適切かどうかという問いは、いつも置き去りにされる。

言葉の反転

かつて「オタク」は侮蔑語だった。しかし今、それは文化的ステータスへと反転している。異質さが独自の価値を育て、臨界点を超えた結果だ。
ギャルもまたかつては不良と同義だったが、その自己肯定感の高さと独自の美学により、その地位を書き換えた。

同じことが、今「否定的」に使われている言葉にも起こり得ると僕は考えている。例えば「チー牛」「メンヘラ」「発達障害」、これらの言葉の価値が反転する日がいつか来る可能性がある。
歴史は少なくともすでに二度、この反転を見せた。
かつてのアウトサイダーがカルチャーの主役に躍り出たように、今のレッテルもまた、新たなアイデンティティの旗印になり得る。

自分の中にギャルを持て

かつて岡本太郎は言った。
「自分の中に毒を持て」
僕はこの言葉を、こう言い換えたい。

「自分の中にギャルを持て」

ここで言うギャルとは、外見のことではない。自分もはみ出しながら、隣のはみ出し者を「それでいい」と肯定できる、内なる視点のことだ。

陰キャ、不登校、発達障害、メンヘラ、はぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児にはこう言いたい。
同化を目指すな。
ルールへの最適化を「成長」と呼ぶな。
異質さは、削るべき欠点ではなく、育てるべき固有の魅力だ。
そして、いつか、あなたの隣に来た次の異質者に、「それでいい」と言える存在になれ。キミが、誰かにとってのギャルになれ。

そして、マジョリティ側にも言いたい。
「理解してあげる」という傲慢さを疑え。
異質さを削らずに認めることが、社会を豊かにする。

成功の定義をマジョリティから奪い返す必要はない。
異質なら異質なまま手を差し伸べ続ける連鎖が、世界を定義ごと書き換えていく。

ここで、漫画家の島本和彦先生の言葉を引用したい。

サンタクロースをいつまで信じてた?
なんてふざけるな!
いつからいなくなったんだよ!

いいか? サンタの心を受け継いで
これからは君たちがサンタになるんだよ。
「サンタなんか実際いないよ」
なんてことをまるで自分は知識人?
常識人であるふうに言うやつには、
正面から向かって、目をみて言ってやれ!

「俺がサンタだ!」と。
「私がサンタなんだ!」と。 
みんな、サンタになろうよ。でかい、でかいサンタになれ。

島本和彦

みんなギャルになろうよ。
でかい、でかいギャルになれ。

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