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創作大賞受賞作への違和感――エッセイ(試論)を奪還したい

ノートPCを入れるためのトートバッグが欲しい。そんな些細な理由で、noteの「春の連続投稿チャレンジ」に参加することにした。
応募には二つの記事が必要となる。
一つ目のテーマは「#この春やりたいこと」だ。

この春、僕は「創作大賞2026」に応募するエッセイを書きたい。

noteには日ごろから遊び場として使わせてもらっている恩がある。
その感謝を込めて、こういったお祭りには賑やかしのつもりで参加していきたい。

さっそく募集要項と過去の受賞作に目を通してみた。
「エッセイ部門」のバナーには「独自の視点で日々の気づきを」と書かれていた。これは僕の普段書いている記事に近い。そう考えて過去の受賞作品をいくつか読んだ。

しかし、そこで僕は猛烈な違和感に襲われた。
そこに並んでいたのは、無邪気で、それゆえにグロテスクな「幸福な人たち」の姿だった。 これから僕がエッセイを綴るにあたって、まずはこの「気色の悪さ」を言葉にしておかなければならない。

「幸福な人たち」が与えてくれるもの

受賞作の多くは、幸せな家族、風変わりな成功、丁寧な暮らしといったテーマで彩られていた。それは僕の目には、90年代以前の新聞の隅に載っていた四コマ漫画のような、ほのぼのとしてはいるが今では古びた幸福論に見えた。

例えば、現代の統計を見れば婚姻率は低下の一途をたどり、結婚したカップルの3組に1組は別れを選ぶ。そんな時代において、語られる「家族の幸せ」を享受できるのは、もはや一部の「成功者」に限られる。
一部の者が成功譚を語ること自体は罪ではない。だが、その物語を大衆が称賛し、メディアが商品としてパッケージ化したとき、そこには残酷な構造が浮き彫りになる。

創作大賞の受賞作は書籍化や映像化が約束される。つまり、出版社が「これが売れる」と太鼓判を押したということだ。
そして、紙の書籍を買い、「丁寧な暮らし」系のエッセイを享受できるのは、相対的に経済的・時間的余裕がある層である。
結果として起きているのは、成功者の特権的エピソードを成功者同士で購入し合うという経済圏の成立だ。
僕はこれを「文化の再封建化」だと思った。

印刷技術とは、かつては特権階級が独占していた知識を大衆に解放し、社会をアップデートするためにあったはずだ。
しかし、「創作大賞」で行われている成功物語の売買は、利益が出るコミュニティへの追従であり、心地よい価値観だけを特定の範囲だけで増幅させる「文化の独占」ではないか。

そもそも、成功者は少数しかいないはずである。つまり、幸運に恵まれた「特権的なマイノリティ」と言える。にもかかわらず、彼らの物語は「努力や心がけ次第で手に入る普遍的な幸せ」であるかのように偽装され、そこから漏れた多数の人々を透明化していく。
成功譚とは、戦場から生還した数少ない生存者による体験談であり、その背後には語ることすら許されない膨大な「死体」が積み上がっている。

現代の「幸福な人たち」は、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のように自らの金箔を剥がして分け与えたりはしない。装飾品は一切減らさず、ただ成功物語という虚飾を見せびらかし、さらに「賞」という栄誉まで掠め取ろうとする。
その姿は、飢えを満たそうとあがき続ける「餓鬼道」に堕ちた魂のようにさえ映る。何より恐ろしいのは、自分たちが正しく美しい物語を消費していると信じて疑わない、その無自覚なグロテスクさだ。

過去の受賞作を読んで確信したのは、出版社とnoteが手を取り合い、文化を成功者たちの「精神安定剤」へと成り下がらせることを良しとしている、という絶望的な現状だった。
これはまるで、飢えた子供にフルコースの内容を丁寧に紹介するような不快さがある。食レポをするなとまでは言わないが、せめてその子の目の前では慎むべきだ。

現代のノブレス・オブリージュ

「ノブレス・オブリージュ」という思想がある。
現代では「高い社会的地位を持つ者は、それに見合った道徳的義務を果たすべきだ」という文脈で語られるが、その起源はフランス貴族社会にまで遡る。騎士や領主は特権を享受する代わりに、戦争という最前線において自らの命を懸ける義務を負っていた。

もちろん、稼ぐ者はより多くを納税し、余裕のある者は社会貢献や慈善活動に精を出しているだろう。しかし、現代における「成功」の本質は、もはや預金残高だけではない。
円満な家族、信頼できる友人、社会的な承認、そして高度な知的能力。それらによってもたらされる「精神的な安定」という不可視の資本こそが、現代の富の正体だ。

かつての貴族が土地を独占したように、現代の成功者はこれらの精神的資本を独占している。しかし、土地と違ってこれらは目に見えないため、持たざる者への「再分配」が議論されることは皆無だ。

以前から僕は、「炎上」とは死ぬ義務を負わなくなった支配者への「血税」の一種ではないかと思っている。
成功者であればあるほど、炎上による落差の被害は甚大だ。定期的に誰かが炎上し、謝罪し、表舞台から引きずり下ろされる光景は、どこか人身御供の儀式を彷彿とさせる。情報化社会における戦場がSNSであるならば、この執拗な攻撃は、死ぬ義務を果たさなくなった貴族に対する、持たざる者たちの処刑として機能しているのではないだろうか。

だが、納税額や「炎上のリスク」程度では、かつての「死の責任」と同等の倫理的価値を持つはずもない。
炎上は本人の意志とは無関係に降りかかる厄災に過ぎず、SNSという戦場での争いは弱者や社会を守るためのものではないからだ。
現代の成功者はあまりにも安上がりな人身御供で済ませようとしている。
そこに騎士道精神は無い。

むしろ、今持てはやされている「幸福なエッセイ」は、炎上を恐れるあまり、自分たちと似た属性の人間だけに届く「安全な物語」を再生産しているに過ぎない。責任も知的なリスクも負わずに、身内だけで成功を語り合う姿は、安全な城の奥深くに引きこもって宴会に興じる領主そのものだ。

エセー(試論)は、いつから成功者同士の愛撫になったのか

そもそも、エッセイとはフランス語の「エセー(試論)」を語源とする。
モンテーニュがそうであったように、それは既存の価値観に疑いを持ち、自分というレンズを通して世界を解体・再構築する「知的な試み」であったはずだ。

しかし、現在持てはやされている「ほのぼのとしたエッセイ」は、読者を「今のままでいい」と全肯定し、思考を停止させる装置でしかない。
もちろん、何を書き、何を好むかは個人の自由だ。
だが、出版社という「知」の担い手が、これを最良の商品として推すのは、一部の余裕ある層に向けた「知と富の固定」への加担ではないのか。

書物を出版すること。それはかつて、選民的な特権意識を否定し、文化の公共性を押し進めるための革命だったはずだ。言葉や文化とは、本来、力を持たない弱者のための力であり、光の当たらない場所にいる人々のために灯される光だったはずだ。

選民意識に満ちた物語を称揚する現在の創作大賞の姿は、文化の本来の役割を放棄している。それは光の当たっている場所だけを不自然なほど明るく照らし出し、それによって周囲の暗闇をよりいっそう、見えなくさせている。

死んだ神の剥製、あるいはその死体から芽吹くもの

ニーチェは「神は死んだ」と言った。
かつての神とは、信じる者を死後に救済する「大きな物語」だった。
そして現代における「大きな物語」とは、丁寧な暮らしを営み、家族を愛し、仕事で成果を出せば報われるという、あの記号化された幸福の物語のことだ。
だが、そんなものはとうの昔に崩壊している。 にもかかわらず、出版社が今なお売り続けている「幸せエッセイ」は、死んだ神を剥製にして飾り立て、あたかもそこに救いが実在するかのように見せかける虚構の祭壇だ。

僕が書きたいのは、そんなほのぼのとした選民意識を内在した神話ではない。 僕が書きたいのは、神亡きあとの世界で、僕たちがどう生きていくべきかを考え続ける試論だ。

世界中の神話において、神の死体からは常に新しい生命や豊穣が生まれてきた。 そうであるならば、僕たちは剥製に縋るのをやめ、その死体から全く別の物語を紡ぎ出せるはずだ。
例えば、丁寧な暮らしなどできなくとも、ビジネスで成功を収めなくとも、それでも人が幸福でありうる道を探したい。 願わくば、『幸福な王子』のように自らの身を削り切り、かつての領主のように死の責任を負わずとも、僕たちが僕たちのままで立っていられる場所を見つけ出したい。

欺瞞に満ちた神の幻想を殺し、新しい現実を打ち立てたい。
それが、僕にとってのnoteへの恩返しになるはずだ。
そして、本来の意味での「エッセイ(試論)」を奪還したい。
それが僕の「#この春やりたいこと」だ。


追記

この記事を読み直してみて、少し攻撃的に過ぎたと感じた。必要以上に悪意を想定してしまっていたかもしれない。

ここで書いたことは、特定の記事や出版社を攻撃する意図ではない。商業的成功を目指すこと自体を否定するつもりもない。売れそうな題材を選び、読まれる努力をするのは、出版社としても書き手としても当然のことだ。書き手は好きなものを書き、売り手は好きなものを売り、読み手は好きなものを評価する。それ自体は健全な循環だと思う。

僕が違和感を抱いたのは、その市場の論理が、あたかも「民意」や「自然発生的な人気」であるかのように提示されている点だ。

インターネット上の創作の場は、本来もう少し異なる力学で動ける可能性を持っているはずだ。にもかかわらず、「創作大賞でも結局、売れそうなものが選ばれました」という結果が、「みんな本当にこういうのが好きなんでしょう」という証明のように扱われてしまう。その結果、市場の力学が僕たちの欲望へとすり替えられてしまう。

これは特定の誰かの悪意の問題ではない。書き手、読み手、出版社、プラットフォーム、すべてが無意識のうちに参加してしまう構造の問題だ。だから責めたいわけではない。ただ、この構造が存在していることに自覚的であってほしいだけだ。

市場があることと、それを民意と呼ぶことは同じではない。その違いを曖昧にしたままでは、色とりどりだったはずの創作が、「自然に」同じ色に収束していく。それを自然と呼ぶのは、少し違うのではないかと思った。

そんな退屈な世界にしたくないだけだ。

売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンになっちゃうよ。

甲本ヒロト

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