『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』から読み解く現代社会
はじめに:「ちいかわ」は僕たちの物語である
最近、多くの人が『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』について感想を述べているが、どれも似たり寄ったりで、物語の中で描かれている出来事の整理や、民俗学的な分析の枠を出ていないように見える。
しかし、思い出して欲しい。もともと『ちいかわ』という作品は「現代社会のメタファー」だったはずだ。
ちいかわやハチワレたちが行う労働の厳しさ、資格制度、配給や斡旋、そして報酬の仕組など、そこには過酷な労働環境、格差、生きづらさといった現代的なメッセージが随所に込められており、「現実社会とどう接続しているか」を読み解くことがこの作品の考察だったはずだ。
しかし、今回の映画版(セイレーン編)の感想において、現実社会とリンクさせた分析をほとんど見かけない。みんな、セイレーンや島二郎が現実社会において何のメタファーなのかを深掘りせず、正義の曖昧さや「罪と罰」といった物語内の設定・プロットの分析に終始している。せいぜい人魚やセイレーンの伝承、あるいは島二郎の役割を民俗学的に読み解く程度だ。
だが、ナガノ先生が描いているのは、現代を生きる僕たちが日々感じている「社会の息苦しさ」のはずだ。
だからこの記事では、『ちいかわ』を「トマス・ホッブズの政治哲学」と「SNS社会の構造」というレンズを通して、一歩踏み込んで再解釈してみたい。
1. セイレーン=海の怪物「リヴァイアサン」
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の細かなストーリーについては、今更ここで詳しく振り返る必要はないと思う。
簡単なあらすじはこうだ。
ちいかわたちが100倍の報酬につられてとある島を訪れると、島民がセイレーンという化け物に襲撃されていることを知らされる。ちいかわたちはセイレーン討伐を依頼される。セイレーン側の言い分は「島民の誰かが仲間の人魚を食べたから、その犯人探しと報復をしている」というものだった。ちなみに、人魚を食べると「永遠の命」が手に入る。誰がなぜ食べたのかという推理と、やがて明らかになる過酷な真実が見どころの物語だ。
セイレーンは島民を無差別に襲う恐ろしい怪物として登場するが、その暴走の起点にあるのは「仲間(人魚)を害されたことへの報復」という、セイレーンたちなりの秩序や正義である。
このセイレーンというキャラクターの行動や能力を分解すると、「圧倒的な力を持ちながら、独自の秩序に基づいて行動している」ということになる。しかし、こちらからの話し合い(個別の事情の訴え)が通じるわけではなく、外部から制御することもできない。
僕には、この怪物が現代における「SNS民意」の擬人化のように思えた。
そう考えると、作中の不気味な設定の多くに整合性が生まれる。
セイレーンの歌は、普段は作物の育ちを良くする恵みとして機能するが、いざとなれば人々を縛り上げる拘束の力として使われる。同じ力が、ある時は恩恵をもたらし、ある時は強力な束縛となる。これはSNS上の言説が、時に人を励まし、時に人を追い詰める毒にも薬にもなる性質と酷似している。
さらに、独善的とも言える正義の執行とその圧倒的な威力、そして一度セットされた目的が修正されることなく不条理に走り続ける様は、SNSの「炎上」そのものだ。
セイレーンは「なぜ人魚を食べたのか」「どのような切迫した経緯があったのか」といった個別の文脈や事情を一切問わず、ただ機械的かつ容赦なく「制裁」を与える。これは、SNS上で一度でも誤りを見つけられた際、過去の経緯や背景を一切無視されて袋叩きにされる現代インターネットの過酷な論理と同じだ。
この「暴走した秩序」の正体こそ、トマス・ホッブズが定義した海の怪物「リヴァイアサン」に他ならない。
ホッブズの著書『リヴァイアサン』では、安全と平和を守るため、個人の権利を一つの大きな国家という権力に預けるという社会契約の必要性を説いた。
この巨大な権力を聖書の怪物になぞらえて「リヴァイアサン」と呼んだ。 無数の個人の権利を集約・合体させて成立する絶対的な統治者――このホッブズの概念は、現代のSNS空間が作り上げている「ネット世論」という巨大な構造にも通ずる。
ちいかわのセイレーンとリヴァイアサンは共に「海の怪物」であることも示唆的だ。
現代のSNS空間において、個々のユーザーは弱小で無力な存在(モブ)に過ぎない。しかし、ひとたび「炎上」や「バッシング」という共通の目的で結びついた瞬間、彼らは個人の理性を失い、他者の文脈を無視して踏みつぶす巨大な怪物=リヴァイアサンへと変貌する。
セイレーンの歌とは、SNSにおけるアルゴリズムやトレンド、同調圧力のことだ。平時はエンターテインメントとして消費者を潤すが、ひとたび駆動すれば聴く者の理性を奪い、特定方向へ扇動する狂気となる。
そして、セイレーンが作中で口にする恐ろしい罰、「オリに入れて、深くてくらーいとこで『永遠の命』を味わってもらう」とは、永遠に鎮火しない炎上であり、消えることのない「デジタル・タトゥー」への恐怖のことではないだろうか。
ルールを破った者、群衆の逆鱗に触れた者を、二度と社会復帰できない暗闇に閉じ込め、未来永劫晒し続けるネット社会の制裁システムが、ここに描写されているように思える。
2. 人魚=「バズと承認」
セイレーンが「SNS社会の構造そのもの」のメタファーだとしたら、その傍らに控え、食べると永遠の命をもたらすという「人魚」とは何なのか。
ヒトハとフタバが手に入れようとした「永遠の命」とは、現代における「バズ」や「インフルエンサーとしての特権的な地位」の象徴ではないだろうか。
その地位には明確な上限(作中ではわずか3体の人魚)があり、誰もが辿り着ける場所ではない。一握りの者にしかその座に着くことは許されない。
しかし、ひとたびそれを手にすれば、無限の承認欲求が満たされ、社会的な成功や影響力という「報酬」が約束される。
だが、その特権は常にSNS民意(セイレーン)の厳しい監視下に置かれている。民意が「それにふさわしい」と認めた存在でなければ、その資格を維持することはできない。
ヒトハとフタバは、もともと何者でもない「モブ」だった。インフルエンサー(人気者)になるような華々しい資格など最初から持っていない。
しかし、フタバはセイレーン(SNS民意)から認識すらされず、悪意すら向けられないまま一方的に大怪我を負わされた。「何もしていなくとも理不尽に傷つけられる」という絶望から、ヒトハは現状を一発逆転させるために不当な手段で「人魚(特権)」に手を伸ばしてしまった。
しかし、持たざるモブが分不相応な力を横取りすることを、絶対的なルールを司るセイレーン(SNS民意)は決して認めなかった。
3. 島二郎=陸の怪物「ベヒモス」
では、この理不尽で巨大なセイレーンのシステムと唯一渡り合い、異彩を放っていたキーマン「島二郎」とは何者だったのか。
ホッブズの著作において、海の怪物「リヴァイアサン」と対をなす陸の怪物として描かれるのが「ベヒモス」である。
島二郎は陸に生息し、島の秩序や集団のルールとは一切無縁の、孤立した野性的な存在として登場する。
セイレーン(リヴァイアサン)が「暴走した人工的秩序」であるならば、島二郎(ベヒモス)は「制御された自然の混沌(個の生命力)」と読み取れる。
島二郎は、セイレーンの歌(SNSの同調圧力やトレンド)に一切耳を貸さない。
彼は「討伐して報酬を得る」という作中の資本主義・システム的論理に依存しておらず、ただ自分の手で食材を調理し、食うという「極めて原始的で根源的な生の活動」に徹している。
島二郎はセイレーンと正義の対決をしているわけではない。かといって島民の味方として正義を振りかざしているわけでもない。ただセイレーンが作り出す狂気のシステムから適度な距離を置き、独自に貝汁やカツカレーを作り、目の前の者に分け与えているだけだ。
島二郎という存在は、肥大化した社会秩序に決して飲み込まれない「自立した個」のあり方を体現している。
本来、社会秩序が完璧に機能していれば、島二郎のような規格外の異物=混沌は排除されるべき存在であるはずだ。
しかし、秩序のほうが暴走し、人々を抑圧する怪物と化している局面においては、システムの外側に足場を置く島二郎のような「ベヒモス的存在」だけが、暴走に抗い、傷ついた者を救い出すことができる希望となる。
4. モブという名の主役
この映画における実質的な主人公は、ちいかわたちではなく、モブであるヒトハとフタバだった。モブとは、画面の前にいる名前を持たない匿名ユーザー――つまり「僕たち自身」のことだ。
ちいかわやハチワレたちは、作品全体の主人公であり語り部ではあるが、この映画のドラマにおいては「目撃者・助演」に過ぎない。この構造は、『スター・ウォーズ』本編に対する『ローグ・ワン』や『マンダロリアン』の関係によく似ている。本編のメインキャストたちは、システムから特権を盗み出した名もなき者たち(ヒトハ・フタバ)と、システム外の自浄作用(島二郎)がぶつかり合う巨大なうねりに、たまたま巻き込まれただけだ。
僕たちが生きる現実において、SNS民意という巨大な怪物(リヴァイアサン)を倒すことなどできない。それは個人の力ではどうにもならない巨大な構造として、これからもそこに存在し続ける。そしてネット社会は、毎日新しい誰かを炎上させ、消費しながら駆動していく。
ヒトハとフタバは、その終わりのない消費と制裁の輪廻から逃れようと、二人で静かな離島へと逃亡した。しかし、セイレーンはその追跡の手を緩めず、どこまでも追いかけてくる気配を残して物語は終わる。一度システムに目をつけられた者は、永遠に逃げ切ることはできないという絶望的な余韻となっている。
おわりに:数百年後に語り継がれる「現代という地獄」
ナガノ先生が最初から「ホッブズのリヴァイアサンとベヒモスの対立を描こう」と意図して作劇したわけではないと思う。
しかし、ナガノ先生という凄まじい観察者が「いま僕たちが生きている現代社会の空気」を純粋に描き出そうと突き詰めた結果、そこに含まれる「逃げ場のない息苦しさ」「どこまでも追ってくる恐怖」「バズという名の永遠の命と代償」というテーマが、図らずも哲学者トマス・ホッブズが1651年に著した政治哲学書の構造と合致してしまったのではないだろうか。
この映画は単なる可愛らしいキャラクターのファンタジーなどではなく、僕たち自身が今まさに囚われている「現代社会の地獄」を突きつける、極めてシリアスな劇薬として響く。
数百年後に、リヴァイアサンの別名としてセイレーンが語られ、その対抗となるベヒモスの位置には、島二郎が鎮座しているのかもしれない。
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