なんか毎年雨が降る時期について
なんか毎年雨降る時期あるよな
かつて2ちゃんねるの野球実況スレッドに、こんな書き込みがあった。
当時のスレッドでは、住民から「梅雨っていうんやで」と優しく教えられていた。
noteでは、多くの人が「日常エッセイ」を書いている。
最近、常盤ばらんさんがおすすめされているクリエイターの記事を読んだ。
どれも素晴らしい私小説のようだった。中には「エッセイで本を出したい」という明確な目標を持つ人もいた。
ひるがえって、自分の記事を見直してみた。
キレイダナァ…
ナンデ ワレハ
アアジャナイ…

白面の者のこのセリフを思い出しはしたが、正直、僕は白面の者ほどは絶望していない。でも、「なんか、自分はnoteの主流と違うな」という違和感はずっとある。
僕の記事は、自分の考えたことを誰かが面白がってくれたらいいな、というくらいの温度感で、いわば「思想エンタメ」のつもりの雑談を書き散らしてきた。
どちらのスタイルが正しいというわけではない。けれど、note運営が求めているもの、より多くのユーザーが拍手を送る対象は、あの私小説のほうではないかという予感がある。
noteというインフラを利用して何かを書く以上、その場所の期待に応えるのが礼儀だとするならば、僕はnoteの使い方を間違え続けているのではないか。そんな疑念が、ずっとある。
飽和した文章と効率化した物語
現在は、誰もが簡単に文章を発表できるようになり、ネットにはプロアマ問わず「面白い文章」が飽和している。いまや僕たちのライバルは隣のクリエイターではなく、YouTubeであり、Netflixであり、ゲームだ。僕たちは読者の「可処分時間」という限られたパイを、あらゆる娯楽と奪い合っている。
この、限られた時間を奪い合うゲームの勝利者の一つが、現代の「なろう系(異世界転生)」という物語フォーマットだと思っている。「またこれか」と馬鹿にされがちなジャンルだが、あれは高度な文化の勝利でもある。この形態の物語は、「剣と魔法の異世界」や「ステータス画面」という前提知識を、書き手と読み手が共有しているからこそ成立する。
仮に明治時代になろう系小説があったとしても、誰も理解できないはずだ。ゲームや二次創作など、無数のメディアの飽和が生んだ究極の効率化、それこそが「なろう系フォーマットの共有」なのだ。
あと50年もすれば、なろう系は古典文学として高尚なものとされ、その時の僕たちはまた別の「新しい低俗」を見つけて盛り上がっていることだろう。
そして、この表現の効率化の果てには、何が待っているのか。
かつてインターネットの登場は、一人の意見を大勢に拡散する「ブロードキャスト」を可能にした。しかし、その結果溢れ出した膨大な情報は、もはや一人の人間の脳内では処理しきれない。
例えば、政党の「チームみらい」では「ブロードリスニング」という概念を提唱している。膨大な市民の意見をAIを用いて要約・グループ化し、全体を把握する試みだ。
同じことが、これからの読書にも起き得ると予想している。
膨大な文章をAIが「ブロードリーディング」する時代だ。人間の生涯では絶対に読み切れない量のテキストを、AIが代わりに読み、必要な情報だけを抽出してくれる。というか、もうほぼそうなってきている。
こうなると、ただの情報や、既存のフレームワークに沿った思想といった「要約・グループ化可能な文章」は、すべてAIに回収され、効率的に消費されて終わる。
紀元前からの「再演」と「梅雨の再発見」
ここで語られているようなテーマは、恐らく、紀元前からあらゆる場所(アテネの街頭、19世紀のカフェやサロン、あるいはかつての2ちゃんねるのスレッドなど)で、繰り返されてきた話であり、今回のやり取りもその「ありふれた再演」に過ぎない
これは以前、僕がとある記事にコメントした内容の一部だ。 これに対して、「そんなん言い出したら、noteに書かれている全部の文章がそうだろ」と言った趣旨の返信をされた。それは正論だ。
実は、クオリア(主観的な質感)という言葉について、僕はいまだによくわかっていない。だからいつもClaudeに「クオリアとは何か」を聞いている。ある時、Claudeはこう答えた。 「小説をコピーしても、それを描いた人間の体験やクオリアまではコピーされない」「クオリアとはそういうもの」ということらしい。
過去の偉人の書物をどれだけ読んでも、ありふれた議論を再演しても、僕たちはそれを「体験」したとは言えない。 では、AIに回収・要約されず、ありふれた再演にもならず、過酷な可処分時間の奪い合いの中で生き残る「僕たちの文章」とは何なのか。
そのヒントが、冒頭に書いたあの一文にある。
なんか毎年雨降る時期あるよな
いま思えば、彼は梅雨を知らなかった愚か者などではない。知識というカンニングなしに、自らの体験と観察を通じて、自力で梅雨にたどり着いた賢者だったのだ。
いうなれば、この一文は、「最小の私小説」だったのではないだろうか。
既存の情報をなぞるのではなく、自らの体験によって世界を発見した彼の認知のプロセスは美しい。
そして、これがAIにも他者にもコピー不可能な「体験の価値(クオリア)」に他ならない。
僕たちが誰かの私小説的な日常エッセイに打ちのめされるのは、それらの文章もまた、書き手が「自力で梅雨にたどり着くプロセス」のドキュメンタリーを僕たちに見せてくれているからだ。
noteの書き方
僕がこれからnoteで何を書けば、noteの流儀に反さず、かつ自分の「思想エンタメ」を維持できるのか。その戦略が見えてきた。
「日常エッセイ」に転向する必要はない。僕もまた、僕という人間の私小説を通して、思想エンタメを語れば良いのだ。
80年代以降のテレビでは「素人芸」が流行した。人々は芸のクオリティではなく「キャラクター」を消費するようになった。
『めちゃイケ』では、クラスに一人は居そうな役割(ヤンキー、お調子者、オタク)を画面の中に再現していたし、『アメトーーク!』などのひな壇芸人たちも、テレビという学校の中で「自分がどの席に座るか」というキャラクター(属性)を取り合っている。
だとするならば、僕の取るべき戦略は明確だ。noteという巨大な学級の中で、「この書き手は世界をどう認知し、どうやって梅雨に自力でたどり着いたか」という利用価値(面白がられ方)としての席を提示すること。
しかし、結局のところ、この結論は巷にあふれる「noteの書き方講座」が提唱する「あなたにしか書けない体験を書こう」「誰か一人に向けて書こう」という、手垢のついた正論と全く同じ着地点だ。正直、その結論自体は今でもあまり気に入っていない。
僕は、AIでも出力できてしまうような「正しい結論」自体には、何の価値も感じていないからだ。
けれど、なろう系のフォーマットから、ひな壇芸人の席取り合戦、そして「なんか毎年雨降る時期あるよな」という一文の小説を巡ることで、僕はようやくこの結論に、自分の足でたどり着くことができた。
この記事自体が、誰かから与えられた正論ではなく、自力で梅雨にたどり着いた軌跡と言える。
これからも、僕というキャラクターの認知を通じて、世界を何度も再発見し、そのプロセスを「雑談」としてここに書いていこうと思う。
この記事を書きながら、1997年のAppleの広告キャンペーン「Think different」を思い出していた。この宣言をあたらめてここに転記しておく。
Here’s to the crazy ones.
The misfits. The rebels.
The troublemakers.
The round pegs in the square holes.
The ones who see things differently.
They’re not fond of rules. And they have no respect for the status quo.
You can quote them, disagree with them, glorify or vilify them.
About the only thing you can’t do is ignore them.
Because they change things.
They invent. They imagine. They heal. They explore. They create. They inspire.
They push the human race forward.
Maybe they have to be crazy.
How else can you stare at an empty canvas and see a work of art?
Or sit in silence and hear a song that’s never been written?
Or gaze at a red planet and see a laboratory on wheels?
We make tools for these kinds of people.
While some see them as the crazy ones, we see genius.
Because the people who are crazy enough to think they can change the world, are the ones who do.
(大意)クレイジーな人たちに祝福を。
はみ出し者、反抗者、トラブルメーカー、
場に馴染めない人たち。
彼らは物事に違った見方をする。
彼らは規則を好まない。
現状維持なんて毛頭も考えていない。
君たちは彼らの言葉を引用することも、同意しないこともできるし、奴らを持ち上げることも、こき下ろすこともできる。
おそらく唯一、君たちができないことは、彼らを無視することだろう。
なぜなら彼らは物事を変えてしまうからだ。
彼らは発明し、想像し、癒し、探究し、創造し、ひらめきを与える。
彼らは人類を前進させるのだ。
きっと彼らは、いかれずにはいられなかったのだろう。
そうするほかに、真っ白なカンバスに芸術作品を見いだす術はあるのか?
沈黙の中に誰も書いたことがない歌を聴く術はあるのか?
赤い惑星を見つめて車輪付きの実験室を考え出す術はあるのか?
私たちは、そういう種類の人間のための道具を作っている。
彼らをいかれた連中と見る人もいるが、私たちはそこに天才を見ている。
世界を変えられると考えるくらいいかれた人々は、世界を変えていく人たちなのだから。
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