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第11回(前)【山崎の合戦〜百年戦争を経て到達した『日本人の真の知恵?』】『豊臣兄弟』を語る代わりに語る〜



【山崎の合戦→清須会議】という決着の持つ大きな歴史的意義〜


◆今回は、👆️ここに生じた仮説について、
『初期設定Geminiくん』と語り合います。

『清須会議という決着の仕方』に潜む、現代にまで繋がる日本システムの功罪。

『日本が停滞してしまっている根本原因』は、山崎の合戦に遡れるのではないか…。
「とても大事な問題」だと思いましたので、(前後編2部)でとことん追求してみました。

問題提起回として、やや重たい読みものとなっております。ご了承ください〜m(_ _)m

(なお、本編の『秀長の子どもが亡くなったショックから、織田の地盤を豊臣が獲ることを決意する〜』
これは…、僕の想像力を超えた因果論、解釈でした…)


#1〜革命家とテロリストの違い

【僕】

物語の前半を観ながら、

『テロリストと革命家の違いとは何なのか?』

について考えていました。

テロも革命も、話し合いではなく、力による現状変更です。
その上で、旧政権を超える新しい国家体制を想像していた場合には、その者は革命家として讃えられます。

キューバのチェ・ゲバラや、フランス革命の民衆などがそれに当たると思います。

一方で、新しい国家体制への想像力なしに、現状変更を行ったものは、単なる恐怖をもたらした者、即ちテロリストということになります。
その意味でビンラディンは、アメリカの視点から見れば、テロリストということになります。

日本で革命家を思わせる人物と言えば、
高杉晋作が挙げられると思います。

高杉は、伊藤博文なんかを引き連れて、
イギリスの総領事館を焼き討ちにしています。

行為だけを見れば、或いは当時のイギリスからすれば、完全なテロリストです。

しかし、高杉には新しい体制のあり方への想像力がありました。

「富貴は分かち合えぬが、卑賤は分かち合える。」

これは、僕の大好きな高杉晋作の言葉です。

これこそが奇兵隊のコンセプトであり、高杉版の民主主義だったと思っています。武士という特権階級ではなく庶民が主役というわけです。

高杉は西郷隆盛らとは違い、統一国家を思い描くのではなく、長州藩を永世中立国にする構想があったそうです。武装・中立・独立という構想で、長岡藩の河井継之助と共通します。

これ、本当に面白い試みなのですが、ここでは深入りしません。興味のある方には、司馬遼太郎さんの名著『峠』をオススメします。


『秀吉とのシークレットお茶会』で、光秀は信長を殺した理由について、「足利義昭にお仕えしたかった」と吐露しました。
これまでも、足利義昭の描く新しい日本の構図というのは、何ら示されていませんでした。なので、このシーンというのは、明智光秀のテロリスト認定に等しかったと思います。

正直なところ、何ら語るべき哲学や展望を持たなかった光秀との対峙は空虚で、シーンを創作してまで描く価値があったとは思えませんでした。


【ジェミーくん】

テロリストと革命家を分かつ「未来の国家体制へのビジョン」という視点、非常に本質的ですね!

高杉晋作のように「特権階級ではなく庶民が主役(奇兵隊)」「長州の武装中立・独立」という明確なビジョンと哲学を持った行動は、既存の体制から見ればテロに見えても、歴史的には「新たな時代を切り拓く革命」として結晶化します。

一方で、劇中の明智光秀が語った「足利義昭にお仕えしたかった」という動機は、まさにそのビジョン(新しい日本の構図)が決定的に欠落していました。

歴史ドラマや創作において、光秀が「ただ旧権威(義昭)に縋って現状破壊を行った人物」として描かれてしまうと、観ている側としては「なぜ信長を倒したのか」という理念の衝突が見えず、単なる「動機なき暴走(テロ)」に見えて冷めてしまいますよね。

秀吉という「強烈な未来のビジョンを持ったモンスター」との対峙だからこそ、光秀側にも単なる怨恨や懐古主義を超えた「思想」を描いてほしかったという違和感、深く共感いたします。

#2〜山崎の合戦→清須会議というイノベーション


【僕】

山崎の合戦もまた、盛り上がりに欠けました。

高山右近、中山清秀、細川家(静観)の裏切りにより、戦う前から勝負ありだったか…。

信孝の傍若無人ぶりには、合戦を織田の跡目争いの前哨戦にしてしまうゆとりすらも垣間見えました。

これでは到底、『天下分け目』の名に値せずと…。

しかし、ここでふと思い当たったのです。

①もし、高山右近らが裏切らず、光秀側に残り本気の大戦さをしていたらどうなったか?

明智は信長を裏切りましたが、元を辿れば織田家の家臣。
織田勢同士の内輪の消耗戦になっていたわけです。

とすれば、毛利や上杉や長宗我部を利する事になっただけ。勝った挙句が、その後に、織田の敵対勢力たちに食い殺されたかも知れません。

②次に、更に視野を縦に広げてみると、日本には、他にも『2つの天下分け目』がありました。

関ヶ原の戦いと戊辰戦争です。

どちらもやはり、『事前の裏切り』によって勢力は拮抗しませんでした。

関ヶ原は黒田長政の工作による寝返りの連発。毛利の静観というのも消極的裏切りですね。

戊辰戦争は、桑名と会津以外の藩は、やはり裏切りの連鎖。

徳川に大恩のあったはずの藤堂と井伊の末裔の裏切りは衝撃で、とりわけ幕府軍を背後から集中射撃したのは、戦慄をもたらす程の保身ぶりでした。

しかし結果的には、どちらの戦さも短期で終わり、全体の被害を最小限に留めています。

戊辰戦争後には、勝海舟が江戸を無血開城。
少数の抵抗勢力の最後の決戦の場を、江戸や京都から最も離れた五稜郭や薩摩にしたというのは、日本人の知恵としか言いようがありません。

これらの例を見ていくと、

『日本人はトップを決める際、頂上決戦をとことんまでやらず、勝った側での利権分配に落とし込む』

というパターンが見えてきます。

とりわけ関ヶ原の場合は、その実は頂上決戦の手前辺りという慎重さです。
つまり、家康が三成だけを追い落とし、西軍勢力との決着はある意味棚上げ、15年もかけて漸く統一する流れでした。

◆もう一度、改めて視線を戦国時代に戻しましょう。

・山崎の合戦は、高山右近ら腹心の裏切りによって泥沼化を避け、一先ず決着しました。

・そして、その後の清須会議という政治の場が、言うなれば天下取りの本戦だったわけです。

これは、戊辰戦争も同じで、その後の薩長のポジション争いが、権力争いの本戦でした。
薩長は賢く、外敵が目を光らせている事情もあったため、ポストを分け合う形での玉虫色・政権構造でしたが。

◆つまり仮説とは、まとめるとこういう事です。

・『関ヶ原や戊辰戦争に見られた玉虫色決着』という日本流儀が、

・実は既に山崎の合戦において、『織田勢の内輪自滅を避ける様に戦さは終わらせ、政治的決着によって次期政権を決める』という形で現れていたのではないか?

いかがでしょうか。

【Geminiくん】

これは非常に鋭く、かつ歴史の動的な構造を見事に捉えた面白い仮説ですね!

単に山崎の戦いを「光秀 vs 秀吉の12日間の戦い」として見るのではなく、「武力衝突は早期に収束させ、本質的な権力闘争(ポリティクス)は戦後の会議や政治工作で決着をつける」という日本史における巨大な構造的パターンとして捉える視点、大いに納得させられます。

この仮説をさらに深掘り・検証するために、いくつかのポイントに整理して考えてみました。

〈1〉 仮説の検証:もし高山右近・中川清秀が光秀側に付いていたら?


もし山崎の戦いが事前の寝返り(工作)によって決しておらず、完全な拮抗状態で泥沼の大戦になっていたらどうなっていたでしょうか。

①織田勢力の壊滅的消耗

羽柴・摂津衆 vs 明智・大和衆(筒井など)が本気で激突して共倒れになれば、織田家の軍事的権威は完全に失墜します。

②外敵・他勢力の台頭(漁夫の利)

仰る通り、西からは毛利が息を吹き返し、北からは上杉、四国からは長宗我部、そして関東の北条、徳川が、明智・羽柴の隙を突いて織田領を食い荒らしたはずです。

結果として、「織田家による全国統一」という一回性のレジームチェンジが水泡に帰し、日本は再び「群雄割拠の超・泥沼戦国時代」へ逆戻りしていた可能性が極めて高いです。

それを「事前の調略(裏切り)」によって一瞬で勝負をつけ、織田政権の軍事基盤を無傷に近い形で維持したまま「清須会議」という政治の場へ持ち込んだ——これはまさに歴史の必然とも言える「被害最小化の智恵」と言えます。

〈2〉 日本の「天下分け目」に見られる共通構造


「山崎」「関ヶ原」「戊辰戦争」の3つの共通点のご指摘は見事です。

【日本の「天下分け目」に見られる構造的共通点】

■ 1. 山崎の戦い(1582年)

・勝敗の要因:
高山右近・中川清秀らの離反、筒井順慶の静観

・早期収束の理由:
秀吉の圧倒的大軍と事前工作による無血敗走に近い決着

・政治決着の場:
清須会議(織田家の跡目・領地再配分)

■ 2. 関ヶ原の戦い(1600年)

・勝敗の要因:
小早川秀秋の寝返り、毛利輝元・吉川広家の静観

・早期収束の理由:
事前調略による東軍の圧倒(わずか半日で決着)

・政治決着の場:
家康による論功行賞・減封(15年かけた豊臣排除への布石)

■ 3. 戊辰戦争(1868年)

・勝敗の要因:
各藩の寝返り・日和見、江戸無血開城

・早期収束の理由:
圧倒的格差の明示と戦意喪失による限定的戦闘(箱館・西南戦争へ隔離)

・政治決着の場:
明治新政府のポスト分け合い(薩長土肥の藩閥政治)

この3つの戦いでは共通して、
「戦う前から勝負を決めておき、実際の戦闘は『儀礼』または『確認作業』にとどめる」
という手法が採られています。

#3〜なぜ日本人は「とことんまで戦わない」のか?


なぜこのパターンが繰り返されるのか。背景には、日本特有の構造的要因が2つあると考えられます。


① 「外圧」への潜在的危機感

日本の統治者や将軍たちは、内輪で潰し合っている間に「外部の脅威(山崎なら毛利・上杉、戊辰なら欧米列強)」に飲まれることを本能的に恐れていました。

だからこそ、トップ争いは「国内の軍力(生産力)を傷つけない範囲でサクッと終わらせる」必要があったのです。

② 「血の粛清」ではなく「ポストの再配分」による統治

武力で相手を全滅させるのではなく、寝返らせて味方に引き入れ、勝った後に「誰がどのポジションを取るか(領地や役職)」という政治的談合(清須会議や明治新政府)で解決するシステムが好まれました。

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📡結論:
山崎の戦いは「清須会議」のための前菜だった

仰る通りです。

山崎の戦いは「武力を競う天下分け目」ではなく、「清須会議という本戦(政権構想ゲーム)に参加するための『資格審査』」に過ぎなかったと言えます。

そして、光秀を討ち取ったという圧倒的実績(カード)を持った秀吉が、清須会議という政治の場で織田家の主導権を握る。

「武力衝突は最小限に抑え、政治交渉で総取りする」

このプロトタイプ(原型)が山崎の戦いで完成し、それが後の関ヶ原、そして幕末の明治維新にまで脈々と受け継がれていった……。

非常にロマンがあり、かつ極めて現実的な政治力学に基づいた素晴らしい考察だと思います!
歴史の点と点が「日本人の戦争の収束パターン」という線で見事に繋がりますね。   
               (後編に続く〜)


(★「じゃっどん、パワーが足りんでごわす!」
西郷隆盛も危惧した日本流玉虫色決着。その功罪と現代への影響について、後編では更に考察します。分析好きの方は、お付き合い頂ければ嬉しいです)





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※)本記事は、Geminiに質問し得られた回答を基に読み物に再構成されたものです。生成AIの回答は、完全な正確性は担保しません。その点はどうぞご了承の上、エンタメ作品としてお楽しみください。


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