会食恐怖症から間違った信仰に光を照らされた話
こんにちは、ハレルヤ。
信仰を学ぶ中で、多くの悟りや気づきが与えられるものですが、神の導く道は一本ではなく、木の枝のように広がり、そこに実がなるように感じることがあります。
今回、私が信仰を通して学ばされたことは、「自己犠牲こそ神の愛だ」というトラウマ由来の思い込みから解放されたことでした。
神様が教えてくださった“愛の本質”について、少しでもシェアできれば幸いです。
私は会食恐怖症という弱さを抱えていますが、それでも「相手のために働かなければならない」と無理をしてきました。
まるで、パウロの言う「肉体の棘」(コリントの信徒への手紙二12:7)を抱えているような思いで、ただ“正義”に従い続けようとしていたのです。
頼まれごとは断らず、気になることはすべて背負い込み、誰よりも“キリストの愛”に生きようとしていました。
その根底には、「自己犠牲こそ正義だ」という刷り込みがあったのだと思います。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
このみことばを誤って理解し、「自分が壊れるほど尽くすことこそ愛」だと解釈していたのです。
しかし本来これは、“神の御心であれば”という前提のある愛の姿でした。
あるとき、悩んでいた私に家族が教えてくれた ローマ14章 を読んだ瞬間、私はこれまで“正しい”と思い込んでいた信仰の形が砕かれるように感じました。
「22:13 …外の暗闇に放り出せ。そこで泣き叫び、歯がみをするだろう」(マタイ22:13)
まさに、霊的な意味でこのような苦しさを体験していたのだと気づかされました。
📕この記事は、心の負担を抱えて悩み、苦しんでいる方にとって、少しでも励ましと導きとなればと願って書いています。
擬人愛(自己犠牲礼賛)が生んだ「犠牲の美徳」という刷り込み
私たちは自然と、“頑張ること”“無理をすること”“自分より他者を優先すること”を美しい美徳として教えられて成長します。
もちろん、これ自体が悪いわけではありませんし、信仰においても愛には自己犠牲の側面があります。
しかし、私が長年抱えていたのは、もっと歪んだ形でした。
自分が苦しめば苦しむほど、誰かのために尽くせば尽くすほど、それが「正しい・立派・優しい」と評価される。
逆に、自分を守ろうとすると「わがまま」「弱さ」「逃げ」と感じてしまう。
これは単なる思い込みであり、世がつくり出した刷り込みです。
そして私は無意識のうちに、
“キリストの偽の衣を着た良い人” を演じ続けていました。
その結果、心はすり減り、仕事への情熱は失われ、愚痴も増え、すべてが重荷となり、信仰ですら遠く感じるようになりました。
活力もなくなり、無気力になっていきました。
心に負担を抱えながら生きることは、最終的に自分も周りも傷つけてしまいます。
神の真理は、まず重荷を降ろすことを教えています。
「疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます…
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイ11:28〜30)
私はこの罪悪感のループから抜け出せずにいました。
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