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米国のキリスト教史をたどる 『反知性主義』森本あんり著 読了

<概要>
アメリカのキリスト教は、平等や自由を尊ぶ精神と相俟って変異し、アメリカの反権威主義=反知性主義をもたらす、というストーリーをアメリカ宗教史に鑑みながら紹介した著作。

アメリカの反知性主義の歴史を辿ることは、すなわちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。

本書5頁

<コメント>
「国際政治ch」で東京女子大学学長の森本あんりが登場して以降、非常に気になっていた著作。やっと読了。


⒈アメリカにおける反知性主義とは

ここでいう「反知性主義」とは、その言葉通りの意味ではありません。

アメリカにおける反知性主義は、知性そのものを否定しているのではなく、いわゆるエスタブリッシュメント(=既存の権威や権力・組織)と結びついた知性に反対する考え方です。

既存の権威・権力(=イギリスの階級社会&政府)から逃れて、アメリカに移民して来たピューリタンが建国した国家がアメリカなので、もともと既存勢力に対する対抗意識・反骨心みたいなものが彼らの精神の奥深くに宿っているわけで、そんな彼らの姿勢が反知性主義を生む土壌になっている。

反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。

本書177頁

したがって、いわゆるポピュリズム的な「反知性主義」とはだいぶ概念が違うのです。

⒉ハーバード大学はピューリタン牧師を養成する大学

そんなアメリカ人ですが、彼ら自身はもともとピューリタンとして徹底的な知性主義で、それも主体的知性主義。だからこそ権威におもねる知性に対して嫌悪感を抱く。

「ハーバード大学やイェール大学・プリンストン大学などは、ピューリタンの牧師を養成する学校として創立された」という歴史が示している通り、ピューリタンにとって学問は必要不可欠。

「ピューリタニズム」とは、もともとイギリスでヘンリー八世の結婚問題を機に起きた中途半端な宗教改革に飽き足らない人々が、教会のさらなる純化(ピュア化)を求めて始まった運動だった。だから人々は聖書を読むことにいっそう熱心だったし、教会はその聖書の言葉を正しく解き明かしてくれる指導者を求めた。ピューリタン牧師たちに聖書の解釈と解説の高い能力が求められたのは、そのためである。

本書33頁

牧師はヘブライ語やギリシア語を学び、原典から聖書の言葉を正しく理解した上で説教しなければいけない。そして聖書を学ぶだけではなく、あらゆる学問=リベラルアーツを学ぶことによって知識人としての教養を身につけてこそ、聖書は正しく理解できる、とも思っていたらしい(一方で体系的な神学については不熱心)。

面白いのはイェール大学・プリンストン大学設立に関するエピソード。

18世紀に入るとハーバード大学が教理的に弛緩し、不健全な自由思想で堕落した、とみなされてしまい、「これはいかん」ということで新たに創立したのがイェール大学。さらにそのイェール大学も英国教会の害毒に汚染されて堕落したとされ、その半世紀後に創立したのがプリンストン大学。

つまりこれだけピューリタンは厳格で主体的な知性を重要視していたわけで、これは牧師に限らず信徒自身にも知性を求めたらしい。

自ら聖書を読み、自分で聖書に書かれたその神の真意を把握してはじめて信徒といえる、として信徒自身にも聖書を自ら理解するための基礎知識を求めたのです。

まさに主体的な知性主義こそアメリカの精神。

⒊反知性主義の養分「信仰復興運動(リバイバル)」

ところがアメリカでは、このような厳格なピューリタンのキリスト教社会を否定するかのように、独立系教会や牧師が跋扈するようになります。その一つが「信仰復興運動」。

ピューリタンは旧世界では既存の体制を批判する人びとでしたが、新世界では自ら体制を建設し、これを担っていく側になります。つまり反体制だった人びとが、体制側の人びとに逆転してしまう。

また、彼らの子供たちや子孫、つまり移民二世・三世となるにつれ、信仰熱心な親たちと同じような信仰体験をすることができずに悩む二世・三世が大量に発生します。

こうやって日増しに信仰体験を渇望する人びとを更に不安に落とし入れたのが出版革命。出版物が巷に溢れ、信仰体験が記事になって、人々は自分だけが信仰体験=回心できないとなって、ますます不安になっていくのです。

このような状況下、さらにさらに信仰復興運動を加速させたのが大量の移民。彼らは既存の社会を持っていません。つまりピューリタンの既存の教会組織からはあぶれた人びと。

新たな信仰の拠り所を求めていた彼らも、信仰復興運動によって回心の場を提供されることになる(後述するメソジストやバプテストも含む)。

この辺り無宗教者が多い私含む日本人には、わかりにくい。

どうやらキリスト教徒にとっては「神とつながった」と実感できる何らかの神秘的な体験を経験しないと、本当の信者にはなれない、的な恐怖感があるらしい。

この体験のことを回心といい、回心できなければ、この世の幸福も手に入らず、あの世で天国にもいけない、と本気で思うらしいのです、なので回心できないと不安で不安でたまらない。

その回心の体験を提供してくれる場の一つが信仰復興運動の一環としてのリバイバル集会、ということのようです。

回心したくても既存のピューリタンの教会ではお勉強が必要。それなりの聖書等への素養がないと、そもそも教会の仲間に入れてもらえないし、そんな教会は敷居が高くて通えない。でも回心しないと不安でしょうがない。

そんな人の心を掴んだのがリバイバル運動。さらには後述のピューリタンにルーツを持つバプテスト・メゾジストなどの新興キリスト教派。

実際にリバイバル集会で伝道家のお説教を聞き、そのことで本当に回心の体験をした信徒が誕生。実際にどれだけ集会の出席者が回心できたかカウントして、どれだけ実績を上げたか、が彼らの宣伝文句になり、さらに集会出席者が増える(=儲かる)、ということに。

彼(伝道家ビリー・サンデー)の絶頂期ともいうべき1906年から18年までの13年間に、サンデーは人口10万人以上の都市を全部で23訪れているが、そこでは1日あたり576人が回心している。1回の説教あたりにすると約300人というところであろうか。

本書242頁


このような信仰復興のリバイバル集会を主導する伝道家は、その信仰復興運動のスター。

そして彼らこそが反知性主義者の象徴で、ピューリタンの牧師のように大学を卒業したわけでもなく、何らかの牧師のもとで聖書を学んだわけでもありません。

農家だったり職人だったりの家に誕生し、独自の聖書解釈と倫理観で神の説教を行う。ちなみに先述の伝道家ビリー・サンデーは元プロ野球選手。

既存の教会組織を頼るのではなく、会場を借りて宣伝して信者を集めて説教してお布施をもらう、という活動。彼らに宗派というものは存在しません。誰でも参加可能。まさに反知性主義の象徴。

⒋アメリカで巨大化したバプテスト&メソジスト

既存勢力のピューリタンとバプテスト・メソジストとの関係は、日本でいえば、奈良の南都六宗や比叡山天台宗などの既存仏教勢力と、浄土宗・日蓮宗などの新興勢力の戦いとそっくり。

もっと古くは、ユダヤ教がキリスト教を生み、ヒンドゥー教が仏教を生む、という構図と同じ。

これは、宗教の種類に限らず宗教社会学的には、既存勢力としてのチャーチ類型と、新興勢力としてのセクト類型という。

「宗教の時代」だった近代以前の世界は、一般に人間は生まれながらにしてその親の宗教の教派に属することになります。欧米の教会制度もそうだし、江戸時代に始まった日本の檀家制度も同じ。このような体制が既存勢力としてのチャーチ(教会)類型。

ちなみにチャーチ類型は、西欧社会に「公定教会制度」として成立。地域ごとにプロテスタント諸派(ルター派、カルヴァン派など)とカトリックごとに、どの教派がどの地域の教会を受け持つか、地域ごとに教派と教会がセットになって色分けされていた。なので子供が生まれると、自動的に親とその地域の宗派が割り当てられた。

しかし「チャーチ類型」は組織である以上、時間が経てば必ず腐敗します。腐敗して堕落したチャーチ型に対する反抗勢力として登場するのが「セクト類型」。そしてそのセクトが主流派になると、チャーチ類型になって、また新しいセクトが誕生する、というサイクルが宗教の世界。

⑴ピューリタンから忌み嫌われたバプテスト

「アメリカにバプテストがやってくる」と聞いたピューリタンたちは、まるで疫病を扱うかのようで「バプテストがやってくるのは神が自分達に与えた罰だ」と受け止めていたくらいバプテストを忌み嫌っていました。

なぜならバプテストは、既存のキリスト教徒にとって最も重要な施設である「教会の存在意義」を否定していたから。

教会は地上における神の代理であり、神から与えられる超自然的な救いを社会に分配するための唯一の施設である。教会がこの世において特別な存在論的位置を占めていることは、カトリックであるとプロテスタントであるとを問わず、キリスト教のもっとも基本的な新庄の一部をなしている。

本書106頁

バプテストは、教会制度はこの世と妥協した堕落の結果だとして、教会は新約聖書時代の純粋な姿に戻らなければならない、と主張。

幼児洗礼」もバプテストは否定。一般にキリスト教徒は、幼児死亡率が高かった当時、幼児のうちに洗礼を受けないと子供が天国に行けない、と恐れていたのですが、バプテストは違います。善悪の判断できない子供が罪を犯しても罰せられるはずがない、とし成年洗礼しか認めなかったのです。

こんなバプテストがアメリカで隆盛したのには理由があります。

バプテストは、組織もないし正式な牧師もいません。バプテストの牧師になった人びとは他の入植者たちと同じように農民として働くうちに、ある日「神の召し」を受けて周りの仲間に説教を始めるのです。

このようにバプテストの牧師は、周りの仲間に認められて牧師になるので牧師としての教育は受けていません。読み書きもできないくらい。なので牧師の教える教義もさまざまであって独自の教義があるわけもなく、それぞれの入植地ごとにバプテストの牧師がいて組織化することがないのです(「できない」といった方がいいか)。

誰にも頼らず、組織にも頼らず、自分なりに「神の思し召し」を感じ信仰の確信を得るのがバプテスト。

このような自主自立の精神がエスタブリッシュメントにおもねる精神に反感を持つのは当然。まさに反知性主義のルーツの一つといえます。

⑵メソジストとは、読み書きのできるバプテスト

「読み書きのできるバプテスト」がメソジスト。

「リバー・ランズ・スルー・イット」というブラッド・ピットが主役の映画がありますが、ブラッド・ピットが演じたノーマンが幼い頃に父親に「メソジストって何?」と問われ、その父親が「メソジストとは、読み書きのできるバプテストさ」と答えたと言います。

メソジストは、バプテストとは違って組織的な教派。教会を担任する牧師の上に監督という職務があって、組織的に各地区に牧師を割り当てていく。さらに巡回牧師制度というのがあって、上述のリバイバリズムで活躍した伝道家を牧師としてスカウトして布教活動を委託。

彼らは馬に乗って西部の開拓地を巡回し、信者を獲得していく。そして雨風をものともせずに旅を続けます。ひどい嵐の夜には「こんな時に戸外にいるのはカラスかメソジストの牧師くらい」と言われたほど。

その土地に根付いたピューリタンの牧師と違い、日本の熊野の山伏や比丘尼のように各地を遊行して説教していくわけで、その説教が面白くなければ、人は聞いてくれません。

なので、聖書を勉強して知識豊かであることよりも、より楽しい話ができるかどうか、のほうが大事。

ペテロはイェール大学に通ったこともない。無学な漁師だったではないか。だが主キリストはそのペテロを教会の礎とされた。だから神は大卒のジェントルマンではなく、わたしのように無学で素朴な自然人をお用いになるのだ!

本書148頁

このような姿勢こそが反知性主義の心意気であって、メソジストの精神もそのルーツなわけです。

⒌アメリカのキリスト教は、徳福一致の現世利益型

こうやって、アメリカのキリスト教を歴史的にみていくと、彼らの特徴が鑑みえます。なんとなくキリスト教と聞いてイメージするのは中世のカトリックで、現世の利益よりも来世の利益、つまり現世で神を信じ徳を積んで、来世で神の国に行く、というイメージ。

この辺りはイスラーム教も同じで、現世の信仰は、来世に天国に行くためであり、現世利益を追求していないのがイスラーム教徒であり、中世のカトリック教徒。

ところが、アメリカのキリスト教徒はピューリタンだとかバプテストだとかの教派に関係なく共通して、徳福一致の現世利益型なのです。

つまり、現世で神を信仰し徳を積めば、きっと自分が生きているうちにその報酬がある、という考え方。もっといえば神との契約で、自分が神を信じ徳を積む、という義務を果たしたのだから、そのような行為に対して祝福を与えるのが神の義務だ、という考え方。

ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は、神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。
・・・神と人間が対等な契約関係にあるならば、お互いが権利と義務を持つわけである。つまり、人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる、ということになる。

本書23〜24頁

このような思想がアメリカ人の根底に流れているからこそ、他力本願を嫌い、自力本願でこそ夢はかなう、ということなのか。

翻ってトランプ大統領の場合は、エスタブリッシュメントを嫌って既存の官僚組織をぶっ壊して、というふうに、彼の中に反知性主義の思想が流れている、というよりも、大統領になるための、さらには大統領として名声を得るためのマーケティング戦略として意図的に反知性主義としてのポジションをとっている、と言った方がいいのかもしれません。











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