福岡をゆく|日本最古の都市・福岡──2000年続く日中交流史
歴史ある街といえば
「歴史がある街」と聞いて、皆さんはどの都市を思い浮かべるでしょうか?
恐らく多くの方が真っ先に思い浮かべるのは「古都・京都」ではないでしょうか。
京都は794年から1000年以上にわたって日本の「都」であり続けた、まさに日本史を代表する歴史ある街です。
ですが、794年に平安京が遷都される以前、京都はどのような都市だったのかと言えば、よく分かりません。
平安京の前、日本史の中心地は「奈良」でした。
古墳時代、大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によりヤマト政権が成立しました。
どのような過程を経たのかははっきり分かっていませんが、ヤマト政権は徐々に全国へと影響力を拡大していき、次第に「奈良」で中央集権国家の形成を目指すようになりました。
したがって、日本史の始まりの部分では、神話のような古墳時代を経て「奈良」に律令国家が形成され、それが遷都を経て「京都」に引き継がれていく…。
これが多くの日本人が抱いている日本史の始まりのイメージではないでしょうか。
歴史がある街──「福岡」という選択
でも、よく考えて欲しいのです。
京都や奈良に先んじて、日本史の最初の頃から名前が頻出する場所が他にあるではないですか?
そう、「福岡」です。
福岡には、ご存知の通り、平安時代には朝廷の出先機関である「大宰府政庁」が置かれ、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていました。
日本の防衛と貿易の要の地として、福岡は度々歴史に顔を出します。
でも、福岡の歴史の古さはそんなものではありません。
邪馬台国の所在地に関する論争における舞台の一つも福岡。
魏志倭人伝に登場する「伊都国」は福岡西部にあったとされています。
更に歴史をさかのぼれば、西暦 57 年に後漢の光武帝から賜ったとされる金印が出土したのも福岡です。
使者を送った「奴国」は福岡にあったと言われています。
いやいや、もっとある。
弥生期の環濠集落「板付遺跡」があるのも福岡。
歴史書に文字は残っていないものの、縄文時代・弥生時代を通じて、多くの遺跡と出土品が福岡から発見されています。
とにかく、思いつく限りの昔から、人が暮らし集落を形成した形跡があり、日本の歴史を通じて独自の存在感を放っている場所、それが福岡なのです。
もちろん、そんなこと聞いても、福岡の人は「ふーん」と思うだけでしょう。
福岡の人にとっては、あまりにも当たり前すぎるのです。
でも、そこまで古い時代まで歴史を遡って語れる日本の都市は、他にいくつ存在しているでしょうか。
福岡は都こそおかれたことがないものの、はるか古代から一貫して重要な国際交流都市としてあり続けました。
福岡は、日本有数の「歴史がある街」と、堂々と胸を張ってもいいはずです。
博多の栄枯盛衰と中国
では、なぜ福岡(博多)にそんなに古い歴史が残されているのか?
その理由は「中国」の存在です。
「筑紫磐井の乱」「白村江の戦い」「蒙古襲来」「豊臣秀吉の朝鮮出兵」など、日本と、朝鮮半島や中国大陸の勢力との間で軍事的な衝突が起こる際、福岡はその舞台の一つになってきました。
有事に拠点となるのは、平時に栄えているからです。
平時には、貿易の拠点として栄えていました。
そして、中国大陸からの使節団が最初に足を踏み、日本からの使節団が最後に別れを惜しんだ場所、それが福岡(博多)だったのです。
貿易は、相手国の国情にも影響を受けます。
例えば、今も博多の街に残る鎌倉時代に築かれた寺社の数々。
この頃、博多の街には富が集まっていました。
それは、貿易相手である中国が、宋王朝という中国史上でも特に経済発展した時代を迎えていたからです。
特に、南宋の時代になると、海の交易に富を求めた南宋商人達が福岡に渡ってきてチャイナタウンが生まれました。
それが、日本最古のチャイナタウン「博多津唐房」です。
このように「国際都市・博多」は、商人の街として、江戸時代を迎えるまで発展を続けてきました。
しかし、江戸時代の海禁政策により、中国との貿易機能は長崎に移行することになり、博多の国際都市としての存在感は影を潜めていきます。
その後、1854 年に江戸幕府はアメリカと日米和親条約を結び、日本国内の五港の開港を決めますが、もはや博多港が選ばれることはありませんでした。
なお、鎖国中に日中貿易を担っていた長崎には、多くの中国人が居住することになり、後にチャイナタウンが生まれることになりました。
こうした関係は明治時代に入っても続き、1923 年には長崎と上海を結ぶ定期航路も開設されるなど、九州における国際都市の地位は、すっかり長崎に定着していくことになるのです。
中国の王朝が安定して経済発展すると、博多との交易が盛んになって博多の街が栄え、
日中関係が悪化し軍事衝突が起こると、博多は戦いの舞台となり、
中国との交易の地位を失うと、博多は国際都市としての特徴を失う。
そんな関係性があった、と言えます。
福岡の苦労とアジア太平洋都市宣言
このように「鎖国令」により港機能を制限され、明治維新以後も、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、肥前(佐賀)という近隣都市に比べて時代の波に乗り損ねた福岡市でしたが、徐々に九州最大の商業都市として底力を見せます。
現在、福岡市は、九州地域の中心都市として、九州事業を統括する部署や機能が集中する都市に成長しました。
人口減少が始まっている日本において、今なお高い人口増加率を示し、「日本で一番元気な都市」などとも言われています。
しかし、それは決して平たんな道だったわけではありません。
九州の中心都市というあり方と、日本の貿易拠点としての国際都市というあり方は異なるからです。
私の目には、九州の中心都市として成長するまでの道のりは、江戸時代以降に大陸との交易という存在理由を封じられた福岡の、新たなあり方を模索する挑戦と葛藤に満ちた再生の物語として映ります。
1989 年、福岡市では「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」が開催され、翌年には当時の桑原市長により「アジア太平洋都市宣言」が出されました。
この博覧会は、そもそも市政100周年を記念して開催されたイベントでしたが、バブル経済の真っ只中、まだ経済発展もままならない時期のアジアに目を向けて連携を訴えた福岡市の先見性の高さには目を見張るものがあります。
それは、まるで復活を遂げた福岡市が、改めて国際都市として本来持っていたアイデンティティを取り戻しにいくための宣言のようにも感じます。
福岡は西の海にひらかれた、古い都市の一つです。福岡はまた、古来アジア太平洋と深いかかわりをもちつづけて来たところでもあります。ですから 福岡は、日本で最も古い国際都市ということができます。
いま、アジア太平洋の時代に向かって、過去の歴史から学び、世界の明日を考える福岡の開かれた心は、再び新しい時の流れにめざめようとしています。(略)ともに直面する現実をともに解決していく心を、次の世代、さらに生まれ来る世代が受け継ぐよう、努力をつづけたいと思います。
この希いをこめて、アジア太平洋における真に人間的な交流と協調の場、人の都・福岡としていくため、私たちはここに、福岡を「アジア太平洋都市」として宣言します。
これからも続く物語
しかしもちろん、物語はここでは終わりません。
21 世紀に入り、福岡を取り巻く環境は新たな変化に巻き込まれています。
中国の本格的な台頭です。
2010 年に日本の GDP を追い抜いた中国の GDP は、既に日本の4倍以上の規模に膨らみました。
その結果、中国の経済力はどんどん日本に入り込んでいます。
景気が良い時には、旺盛な消費活動や不動産投資が注目を集め、景気の変動時には、様々な理由で来日を希望する人々が増える傾向が見られます。
世界第2位の経済大国であり、世界第2位の巨大な人口を有する隣国・中国。
中国とどのように付き合うか、これは、今後の日本にとって、好き嫌いとは別に考えなければいけない大事な問題となっています。
そして、そのような中国経済の浮き沈みやそれに伴って起こる変化に最も影響を受ける都市、それが福岡になるのではないでしょうか。
日本の2000年の歴史を紐解いていくと、人がまだ地図も持たない時代から、中国という国と交易をする日本の窓口は自然と福岡になっていたのです。
近代史でも、中国は1840年のアヘン戦争以降に国力が低迷し、安定した国家運営のもと急速な経済発展が起こるのは、1978年の鄧小平による改革開放まで待たなければなりませんでした。
この間というのは、明治維新で出遅れた福岡が商業都市として発展し、国際都市として宣言をするまでの時期と重なります。
中国が経済発展を遂げ外に出て行く動きが強まっているのと、福岡が日本を代表する国際都市として存在感を高めているのは、やはり何らかの関係があるのでは、と感じざるを得ません。
では今、福岡はどう関わっていくべきでしょうか?
ひとつには、孫子が言うように、
彼を知り己を知れば百戦殆からず
福岡(博多)と関わりがある中国の都市を訪ねて、福岡という街が中国と関わりながら発展してきた過去を、振り返っておく必要があるのではないだろうか、と思っています。
そんな思いで、このマガジンでは、福岡と中国の歴史的つながりについて考える記事を投稿しようと思います。
次回以降、中国大陸で福岡を探す歴史の旅に、ぜひお付き合いください。
