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失うものがなくなった私が、犬たちの待つ家をつくるまで

1 視界の端

メイを迎えた頃、当時付き合っていた彼氏と別れた。
「けいちゃんの中身が怖い」
去り際に言われたその言葉が、ずっと残っている。
親と縁を切って、親に知られていた勤務先も辞めて、ようやく逃げ切ったはずだった。それなのに、母はまだ、自分の中にいる気がした。
泣いて、怒って、暴れて、すべてを焼き尽くす母。
私の中にはまだ、同じ壊れ方が残っている。そう言われたような気がして、怖かった。

体調を崩し、仕事を辞めた。一日が、ただ過ぎていった。朝なのか、昼なのか、夜なのか。
部屋の中で時間だけが動いて、私はそこに置いていかれているようだった。
自分のごはんさえ、自分で用意できない時期があった。友人が、ごはんを作りに来てくれていた。
胸の音だけが、やけに大きく感じる日があった。息を吸っても、奥まで入ってこない。 消えたい。
その気持ちばかりが強くなっていた。

ただ、同じ部屋にメイがいた。
私がリビングにいれば、リビングに。寝室にいれば、寝室に。ケージの中にいたのか、床にいたのか、細かいことはもう覚えていない。けれど、視界の端には、いつもメイがいた。

私がいなくなったら、この子はどうなるのだろう。ごはんは誰があげるのだろう。トイレは誰が替えるのだろう。病院には誰が連れて行くのだろう。この子は、誰を待てばいいのだろう。
自分の生活さえ、人に支えてもらわなければ回らなかった。それでも、メイだけを残していくことはできなかった。
生きたいと思えたわけではない。でも、メイを置いていくわけにはいかなかった。

視界の端にいる小さな命を、置いていけなかった。
私の回復は、そこから始まった。

2 床の匂い

初めて床に下ろすと、メイはまず部屋の匂いを嗅いだ。知らない部屋。知らない匂い。知らない人間。小さな鼻先が、リビングの床をたどっていく。
少し固まったあと、メイは部屋のあちこちを確かめ始めた。

その部屋は、犬と暮らすための場所ではなかった。段差があった。電気コードもそのままだった。家具も、配置も、人間だけが暮らす前提で置かれていた。
私が用意したのは、小さなケージひとつだけだった。リビングの隣にある寝室で、私のベッドの横。直射日光が当たらないようにだけ気をつけた。
その程度のことしか、私は知らなかった。犬と暮らすことが生活の形をどれほど変えるのかも、小さな生きものがどれほどこちらを見ているのかも。

その頃の私は、犬を迎えるということを、まだ生活の外側に置いて考えていた。
名前を呼ぶと、メイは小刻みに尻尾を振った。その動きだけを、今も覚えている。

その部屋には、母の泣き声も、怒鳴り声もなかった。父の言葉に傷つくこともなかった。家の中で足音を気にする必要もなかった。どこへ行くにも、誰の許可もいらなかった。
誰の機嫌も読まなくていい部屋で、私はただひとりだった。
この先もひとりで生きていくつもりはなかったけれど、誰かの親になることは怖かった。その怖さだけは、まだ体の中に残っていた。

犬と暮らすことを考えたのは、そんな頃だった。
近所のペットショップにいた犬を迎えた。それがメイだった。他の子犬たちより少し大きくなっていて、売れ残りなのかなと思った。
引き渡し前のお手入れを終え、抱き上げられたメイは私を見て、また小刻みに尻尾を振った。

この子を、私は守れるだろうか。
その夜、ケージの中でメイは静かに眠っていた。私の方は、朝までまったく寝付けなかった。

3 閉めるよ

犬は、ケージで過ごすものだと思っていた。
そこが、この子の家なのだと思っていた。
危険がないように。
留守番ができるように。
私の目が届かないところで、困らないように。
ごはんをあげて、トイレを替えて、ケージの中が安全なら、それでいいと思っていた。

でも私は、犬との暮らし方をほとんど知らなかった。
同じ部屋で暮らす相手と、どう心を通わせればいいのかも、知らなかった。

けれど、メイはすぐにその前提を崩してきた。
ケージから出たがった。
長めに入れておくと、扉を開けても、拗ねたように奥から出てこない。

「じゃあ閉めるよ」
そう言って扉を動かすと、今度は全身で「ちょっと待って」と訴えるように、隙間へ割り込んでくる。
犬が、人間と駆け引きのようなことをする。
喜ぶ。拗ねる。甘える。訴える。待つ。怒る。寂しがる。

ケージの中にいれば安全だと思っていた私には、想像もつかないことだった。
メイは、扉が開くのを待っていた。 メイは少しずつ、ただのペットではなくなっていった。同じ部屋で暮らす、たったひとりの家族になっていった。

4 ドアの向こう

少し体調が戻ってきた頃、派遣で社会復帰を始めた。
メイは留守番が苦手だった。家を出ると、ドアの向こうで、細く長い遠吠えが続いた。
仕事に行かなければならない。生活を立て直さなければならない。メイのごはん代も、病院代も、すべて私が稼がなければならない。
それなのに、ドアの向こうでメイはなかなか泣き止まなかった。

玄関の前で、その声を聞いていた。いつ泣き止むのだろう。どこまで聞こえているのだろう。この子は、私が帰ってこないと思っているのだろうか。
この子は、ひとりが無理なのかもしれない。私以外にも、そばにいる相手が必要なのかもしれない。

二匹目、三匹目と犬が増えていった。犬にも相性がある。増やせば寂しさが解決するわけでもない。そんな当たり前のことにも気が回らないまま、当時、犬は六匹になっていた。
可愛いだけでは、暮らせなかった。
ごはん。トイレ。病院。薬。トリミング。留守番。相性。そして、六匹分の生活費。
全部が、私の生活に乗ってきた。

でも、その重さがあったから、私は社会に戻れた。自分のためだけなら、頑張れなかったかもしれない。この子たちのためなら、まだ動ける気がした。
犬たちは、私を癒すために現れた存在ではなかった。
私が守ると決めた、家族だった。

5 守ったって

「お母ちゃんを守ったって」
母方の祖父はよく、私にそう言った。
子どもだった私は、その言葉をそのまま受け取った。母が泣けばなだめ、怒れば機嫌を読み、暴れれば刺激しないように息を潜めた。
守るという言葉の中で、私はいつも小さくなっていた。

犬たちが増えてから、生活は一気に重くなった。ごはんを買う。病院へ連れて行く。薬を飲ませる。トリミングを覚える。留守番の時間を考える。相性を見る。
それでも、その重さは、母の感情を背負わされていた頃の重さとは違っていた。

犬たちがいたから、私は働いた。管理職も引き受けた。自宅でケアできるように、トリミングも学んだ。生活を立て直すために、必死だった。
守るには、お金がいる。だから働いた。

犬たちは、ただ私に安心感をくれた存在ではない。日々の責任を通して、私を社会へつなぎ直してくれた家族だった。

6 サークルが揺れる

机の中も、ランドセルの中も、カバンも、すべて母に見られていた。
逃げ場はトイレくらいしかなかった。家の中では、足音を聞いていた。扉の開く音を聞いていた。母の機嫌が変わる気配を、先に読もうとしていた。

メイを迎えてから、ドアの向こう側に、別の時間ができた。
留守番の練習をしたとき、メイがドアの裏側で私の帰りをずっと待っていることがわかった。その姿を見たとき、一秒でも早く帰りたいと思った。

今でも、帰宅すると六畳ほどに組んだサークルの中で、全員が大暴れしている。サークルが揺れる。足音が重なる。扉を開ければいっせいに飛びついてきて、私は毎日のように床へ押し倒される。
でも、少しかまうと、すぐに飽きてそれぞれの場所へ散っていく。
その雑さも含めて、犬たちは家族だった。

家は、ただ緊張する場所だった。それが今は、犬たちが待っている場所になった。

7 砂場の続き

今の家は、外から見れば要塞のような平屋かもしれない。でも、私が作りたかったのは、犬たちを安心して外に出せる場所だった。
庭をドッグランにした。

外のドッグランに連れて行くこともできた。けれど、六匹を外に連れて出ると、見なければならないことが多すぎた。他の犬と喧嘩するかもしれない。落ちているものを口に入れるかもしれない。犬が苦手な人に、嫌な顔をされるかもしれない。
実際に何かが起きたわけではない。それでも、全員に目を配りながら落ち着いて見ているなんて、無理だと思った。

だから、少し不便でも山側の住宅街に家を建てた。
防犯カメラ。窓ブザー。少ない窓。三重ガラス。自動換気。裏側に窓がない平屋。そして、庭のドッグラン。
すべては、犬たちと私が落ち着いて暮らすための仕組みだった。

完成した庭に放すと、若かった犬たちは土を蹴って走り回った。ハクは全速力で駆けた。メイだけは昔からドッグランで走らない子で、あちこちの匂いを念入りに嗅いでいた。
それぞれが、思い思いに庭で過ごしていた。

子どもの頃の私は、ブランド服を着せられて、砂場に入ることを許されなかった。
汚してはいけない。ちゃんとしていなければならない。綺麗な子どものままでいなければならない。

大人になった私は、犬たちが思いきり走れる庭を作った。
土の匂いを嗅いでもいい。草の上を走ってもいい。少しくらい汚れてもいい。好きなように遊んでいい。
その庭は、昔の私が入れなかった砂場の、遠い続きのような場所でもあった。

8 同じ部屋

今、犬たちは十二歳の老犬になった。
メイは視力が落ち、耳も少し遠くなってきた。薬の時間になって名前を呼んでも、昔のようにすぐ振り向かないことがある。少し遅れて、こちらを見る。その間の数秒が、前より長い。
目がうっすら白くなってきた子もいる。背中が丸くなってきた子もいる。足が少し変形して、歩き方が変わってきた子もいる。
昔は全速力で走っていたハクも、最近は少し衰えてきた。ヒナタは散歩中にバギーに乗りたがることが増えた。
何度も手術をした子もいれば、毎日薬が必要な子もいる。定期的に通院しながら、みんなそれぞれの老いの中にいる。

若い頃の犬たちは、日々の責任を通して、私を社会に戻してくれた。今度は、老いていく犬たちに合わせて、私が社会との距離を変える番だ。
今は、パートナーの力も借りながら、パートやバイトで働き方を調整している。最後の一匹になる子が、ひとりで留守番しなくていいように、在宅ワークの準備も進めている。
ずっと多頭で過ごしてきた子を、急にひとりで待たせたくなかった。

いつか、全員を見送る日が来る。
長くそばにいてほしい気持ちは、もちろんある。
それでも、苦しませないこと。
最期まで見届けること。
それが、最後に守るということだ。

今も、私の視界の端にはメイがいる。
少し耳が遠くなったメイが、同じ部屋で眠っている。

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