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段ボールを布団にして眠った部屋には、ピアノがあった

——恵まれて見えた家を出て、初めて自分の夜を持った



段ボールを布団にして眠った部屋には、ピアノがあった。
今思い返しても、少し変な景色だと思う。

居間の床に敷いた、三つか四つの段ボール。
掛け布団の代わりにした、分厚いコート。
カーテンのない窓。
家具のない部屋。

そして、隣の防音室には、小さめのグランドピアノがあった。

布団もないのに、ピアノだけがある。
たぶん、生活の順番は間違っていた。
でも、あの時の私には、それでよかった。

生きるための道具より先に、自分でいるためのものが必要だった。

それまでの私は、外から見れば、物に困ったことのない子どもだった。

朝はモーニング。昼も、夜も、食事はほとんど外食だった。
服も買ってもらった。けれど、家にあるのは、パジャマか、汚したらクリーニング行きになる服ばかりだった。
習い事も、人並み以上にしていた。ピアノも、子どもの頃から習っていた。

外から見れば、私はたぶん、恵まれた子どもだったと思う。

でも、その家には自由がなかった。
進路も、時間も、持ち物も、気持ちも。
私のもののようで、ほとんど母のものだった。

自分の一日なのに、朝起きた時点で、もう母の予定が入り込んでいる。

今日は勉強できるだろうか。
今日は怒らせずに済むだろうか。

そんなことを考えるところから、一日が始まっていた。

母は、私の行動を常に監視する人だった。
机の中も、カバンの中も、私だけのものではなかった。

休みの日の朝、母の気配がすると、身体が重くなった。
また今日も、買い物に一日付き合わされるのかもしれない。
自分の勉強道具を開く前から、その日の時間がもう母に取られていく感じがした。

勉強していても、母はそばに来て、精神的な介護を求めてきた。
思い通りにならないと、暴れる。殴る。泣きわめく。
私の時間は、いつも母の感情に差し出されていた。

高校生の頃、私は音大志望だった。
でも、ある時ふと思った。
このまま音大に進んだら、私は一生、親元を離れられないかもしれない。
それが怖かった。

ピアノは好きだった。
でも、親の家に残ったまま、その中で音楽を続ける未来を想像すると、息が詰まった。

高校三年生のギリギリで、私は進路を変えた。
准看護師の学校へ行く道を選んだ。

親はもちろん大反対だった。
親の思い通りの進路ではなかったから、学費も出さないと言われた。

家は裕福だった。
でも、親の望まない道を選んだ瞬間、私は経済的な支援の外に出された。

それでも、私は親に恩を着せられたくなかった。
奨学金を借りて、昼間定時制の准看護科に進学した。
看護助手として病院で働きながら、学校に通うことにした。

寮に入る選択もあった。
でも、その時の私は、すぐには家を出なかった。
まだ、どこかで親とうまくやりたい気持ちが残っていたのだと思う。
完全に切りたいわけではなかった。まだ、なんとかなるかもしれないと思っていた。

でも同時に、私は逃げ道も作っていた。
働きながら学校に行く。自分のお金を持つ。奨学金を借りる。
何かあった時、いつでも家を出られるように。

その頃、私はずっと迷っていた。

このまま我慢すれば、親元で何不自由ない生活はできる。
でも、親に全ての自由を奪われて、母の精神的介護に追われながら一生を終えるのも怖かった。

家を出るのも怖い。
家に残るのも怖い。
どちらを選んでも怖かった。

その頃、私の話を聞いてくれる人がいた。
私はたぶん、その人に母の話ばかりしていたのだと思う。
私の中は、母でいっぱいだった。

その時、その人に言われた。

「そのまま一生、全部を親のせいにして生きるの?」
「ほんまにそれでいいの?」

その言葉は、深く刺さった。
優しい言葉ではなかった。慰めでもなかった。少し責められたようにも感じたと思う。
でも、たぶん必要な言葉だった。

親が悪くなかった、という話ではない。
母のせいではなかった、という話でもない。
実際に、母に奪われたものはたくさんあった。

でも、これから先の人生まで全部母に渡してしまったら、私は本当に、自分の人生を一度も生きられないまま終わってしまう。

その人に出会っていなかったら、私はあの時、踏み出せなかったかもしれない。

准看護師の学校は、なんとか卒業した。
その後、正看護師になるための進学コースに通い始めた。そこでも働きながら学校に行った。

でも、准看護師の学校の時とは違った。
実習に取られる時間が多くなり、勉強する時間も必要になった。
准看護師の時のように、「何かあったらすぐ寮に出る」という状態ではなくなっていた。

それでも、あと三年なんとか耐えようと思っていた。

けれど、一年生の時、母の精神状態がかなり悪くなった。
私が勉強していても、そばに来ては精神的な介護を求めてくる。
応じないと、暴れる。殴る。泣きわめく。
休みの日も、母の買い物に一日中付き合わされた。

正看護師の学校は、准看護師の時よりもテスト範囲が広かった。実習もある。勉強する時間が必要だった。
教科書を開いても、文字が入ってこない日が増えた。

テスト範囲は広い。
実習もある。
でも、家に帰れば母がいる。

このままでは、私は卒業できないかもしれない。

そう思った時、初めて「家を出たい」ではなく、「出なければ終わる」と感じた。
あと二年半もこの家にいることは、もう無理だった。

私は、学校へ行くふりをして、こっそり就職先と家を探した。
母は四六時中、私の行動を監視していた。だから、堂々と準備することはできなかった。
一日だけ学校を休んで、家を出る準備をした。

奨学金の残りで、家を借りた。
防音室つきのマンションを選んだ。

そして、ピアノを買った。
小さめのグランドピアノだった。

普通に考えれば、先に買うべきものはピアノではなかったと思う。
布団。食器。鍋。カーテン。
生活に必要なものは、他にいくらでもあった。

布団のことは、後で考えればいいと思った。
でも、ピアノだけは後回しにできなかった。

ピアノは、もともと母に無理やり習わされたものだった。
学校から帰ったら、ピアノの練習。勉強。母の話を聞く時間。母の機嫌を取る時間。
私の放課後は、だいたいそのどれかで埋まっていた。

だから最初、ピアノは大嫌いだった。

でも、いつの頃からか、ピアノを弾いている時間だけは、少し息ができることに気づいた。
音が鳴っている間、母はあまり私を監視しに来なかった。
ピアノの音が、私がそこにいる証拠になっていたからだと思う。

ちゃんと練習している。
ちゃんと家にいる。
ちゃんと母の望む子どもをしている。

その音が部屋に響いている限り、私は監視されながらも、少しだけ母から離れられた。

ベートーベンの暗い曲が好きだった。
明るくて、きれいで、楽しそうな曲よりも、重くて、沈んでいて、どこか怒っているような曲の方が、自分の中に近かった。

泣きながら弾いたこともある。

その時の私は、言葉では何も言えなかった。
苦しいとも、逃げたいとも、怒っているとも言えなかった。
でも、音の中では少しだけ言えた気がした。

ピアノは、母に与えられたものだった。母に強要されたものだった。
それでもいつの間にか、私が自分の気持ちに触れられる、数少ない場所になっていた。

だから、ピアノだけは手放したくなかった。

家を出る時、両親には本当の理由を言わなかった。
この家にいたら、もう学校を続けられない。母の精神状態にこれ以上付き合っていたら、自分の人生ごと飲み込まれる。あと二年半も耐えられない。

そんなことを言っても、通じないことはわかっていた。
だから私は、別の理由を用意した。

「もう正看護師になりたくない」
「准看護師として働く」
「遠くの病院しか就職が決まらなかったから、一人暮らしする」

そんなふうに説明した。

住む場所は、病院の寮だということにした。本当の住所も、就職先も教えなかった。
居場所が知られるのが怖かった。住民票も、実家に置いたままにして出ていった。

家を出る話は、居間で両親にした。
母は、いつも通り泣きわめいた。暴れて、怒って、私を殴った。
父も怒っていた。

「学校はやめたらいかん」

そう言われた。
普通に聞けば、娘の将来を心配する言葉だったのかもしれない。
でも、私にはそう聞こえなかった。

私のために言っているのではなく、私を家から出ていかせたくなくて言っている言葉に聞こえた。

その頃には、私はもうだいぶ親に対して冷めていた。
母が泣きわめいている。暴れている。殴ってくる。

昔なら、怖かった。
どうにかしなきゃと思った。私が悪かったのかもしれないと思った。母を泣かせた自分を責めた。

でもその時の私は、かなり冷たい目で母を見ていた。

距離としては、すぐ近くにいた。
同じ居間にいて、母の声も、怒りも、手も、全部届く場所にいた。
それなのに、心はずいぶん遠くにあった。

まるで、少し離れた場所から、またいつもの場面が始まったな、と見ているようだった。

母が暴れている。
父が怒っている。
でも私は、もうその中には戻らない。
そう決めていた。

ただ、その時は絶縁までは考えていなかった。
「また、休みとか戻れる時に帰ってくる」
そう言って、なんとか家を出た。

案の定、親は言った。

「出ていくなら、何も持っていくな」
「この家にあるものは、全部お前のものじゃない」

そう言われることは、十分に想像できていた。
だから私は、心の中で「はいはい」と思った。
泣き崩れることもなかった。説得する気もなかった。わかってもらおうとも、もう思っていなかった。

この家にあるものは、全部私のものではない。
その言葉は、ひどい言葉だったはずなのに、どこかで腑に落ちてもいた。

そうか。
やっぱり、そうだったんだ。

私が着ていた服も。
習わされていたピアノも。
勉強するための机も。
子ども部屋も。
外から見れば与えられていたように見えたもの全部。

それは、私のものではなかった。
親の思い通りに生きている間だけ、使うことを許されていたものだった。

だから私は、着の身着のまま家を出た。

財布。通帳。印鑑。保険証。
それだけは持っていた。

服は、毎日同じものを着ていても目立ちにくいものを選んだ。寒くなる頃だったから、一番分厚いコートを着て出ていった。
そのコートも、親にもらったものだった。本当は、それすら持っていきたくなかった。でも、さすがに裸で出ていくわけにはいかなかった。

下着と、ピアノの楽譜を一冊だけ、バッグに隠して持っていった。

生活に必要な最低限と、私でいるために必要な最低限。
その二つを、私はバッグの中に入れて家を出た。

初めての一人暮らしだった。

部屋は二つあった。
ひとつは、防音室にしたピアノの部屋。もうひとつは、居間。

ピアノが運び込まれたあと、私は家具が何もない部屋を見た。
そこで、ようやく気づいた。

そういえば、寝る場所がない。

家を飛び出す準備は、あまりにも慌ただしかった。
母に監視されていたから、必要なものをゆっくり揃える時間もなかった。
調理器具も、家具も、生活用品も、ほとんどなかった。

近所のお店に行って、段ボールを三つか四つもらってきた。
何に使うのか聞かれたら困るなと思いながら、店の人に段ボールを分けてもらった。
それを居間の床に敷いた。

秋口で、少し寒かった。
カーテンはまだ買っていなかった。でも、ベランダから丸見えになるような部屋ではなかったから、とりあえずなくてもいいと思った。
電気は、もともとマンションについていたものをつけた。

私は段ボールの上に寝転んだ。
床は硬かった。

段ボールは、もちろん布団ではなかった。
身体を預けるには薄すぎて、寝返りを打てば音がした。

でも、そんなことは不思議なくらい気にならなかった。
私は天井を見ながら、ぼーっとしていた。

静かだな。
やっと、一人になれた。

そう思った。

その部屋には、誰も入ってこなかった。
勝手に扉を開ける人もいなかった。
私のカバンを探る人もいなかった。
泣きながら感情を預けてくる人もいなかった。
一日中、買い物に連れ回す人もいなかった。

何もない部屋だった。
布団もない。食器もない。調理器具もない。カーテンもない。
生活らしい生活を始めるには、あまりにも足りないものだらけだった。

それでも私は、安心していた。

やっと、誰からも侵害されない部屋ができた。
その安心感の前では、布団が段ボールであることなんて、本当にどうでもよかった。

とりあえず就職はした。最初の給料が入ったら、布団を買えばいい。
食費もほとんどなかった。
病院で職員食のお弁当を頼んだ。代金は給料から天引きだった。

そのお弁当を、半分は職場で食べた。残り半分は、家に持って帰って食べた。
ちゃんとした暮らしとは言えなかったと思う。

でも、あの頃の私には、ちゃんとした暮らしよりも先に必要なものがあった。

誰にも入ってこられない部屋。
誰にも監視されない時間。
誰の感情も介護しなくていい夜。

初めての夜、安心はしたけれど、落ち着かなかった。
眠りは浅かった。
怖くはなかった。

でも、頭の中にはまだ親のことがあった。
居場所がばれないだろうか。今頃、怒っているだろうな。また何か言ってくるだろうか。

当時、私は携帯電話も持っていなかった。
親が常にかけてくるから、携帯を持っている方が不自由だった。
連絡が取れることは、安心ではなく、監視につながることだった。
だから私は、携帯を持たずにいた。

誰にもすぐには捕まらない夜。
段ボールを敷いて、コートをかけて、浅い眠りにつく夜。

隣の部屋には、ピアノがあった。

母に強要されて嫌いだったはずのピアノ。
毎日練習させられて、泣きながら弾いたピアノ。
でも、弾いている間だけは、母の監視から少し離れられたピアノ。

私はそれを、初めて自分のお金で、自分の部屋に置いた。

母のものでもない。
親の見栄でもない。
習い事でもない。
課題でもない。

そのピアノは、初めて私のものだった。

親の家には、物はたくさんあった。
でも、私の自由はなかった。
あの部屋には、物はほとんどなかった。
でも、誰にも侵害されない静けさがあった。

翌朝、身体は少し痛かった。
段ボールの上で寝たのだから、当然だと思う。
それでも私は、静かな朝を迎えたことに安堵していた。

母の声で起こされることもない。
誰かの機嫌を読んで一日を始める必要もない。
昨日の母の怒りの続きを、朝から引き受けなくてもいい。

ただ、静かだった。

あれは、立派な自立ではなかった。

布団も、食器も、カーテンもない。
お弁当を半分ずつ食べて、段ボールの上で眠る。

大人から見れば、危なっかしい家出だったと思う。

それでも、あの時の私は、たぶん間違っていなかった。

どれだけ物に満たされても、心が自由でなければ満たされないことを、私はずっと近くで見ていた。

お金よりも、心の自由が大事だった。

あの夜だけは確かに、
私は誰の娘でもなく、誰の感情の受け皿でもなく、
ひとりの人間として、静かな天井を見ていた。

段ボールを布団にして眠ったその部屋で、
私は初めて、自分の人生の音を少しだけ取り戻した。

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