段ボールを布団にして眠った部屋には、ピアノがあった
——恵まれて見えた家を出て、初めて自分の夜を持った
段ボールを布団にして眠った部屋には、ピアノがあった。
今思い返しても、少し変な景色だと思う。
居間の床に敷いた、三つか四つの段ボール。
掛け布団の代わりにした、分厚いコート。
カーテンのない窓。
家具のない部屋。
そして、隣の防音室には、小さめのグランドピアノがあった。
布団もないのに、ピアノだけがある。
たぶん、生活の順番は間違っていた。
でも、あの時の私には、それでよかった。
生きるための道具より先に、自分でいるためのものが必要だった。
*
それまでの私は、外から見れば、物に困ったことのない子どもだった。
朝はモーニング。昼も、夜も、食事はほとんど外食だった。
服も買ってもらった。けれど、家にあるのは、パジャマか、汚したらクリーニング行きになる服ばかりだった。
習い事も、人並み以上にしていた。ピアノも、子どもの頃から習っていた。
外から見れば、私はたぶん、恵まれた子どもだったと思う。
でも、その家には自由がなかった。
進路も、時間も、持ち物も、気持ちも。
私のもののようで、ほとんど母のものだった。
自分の一日なのに、朝起きた時点で、もう母の予定が入り込んでいる。
今日は勉強できるだろうか。
今日は怒らせずに済むだろうか。
そんなことを考えるところから、一日が始まっていた。
母は、私の行動を常に監視する人だった。
机の中も、カバンの中も、私だけのものではなかった。
休みの日の朝、母の気配がすると、身体が重くなった。
また今日も、買い物に一日付き合わされるのかもしれない。
自分の勉強道具を開く前から、その日の時間がもう母に取られていく感じがした。
勉強していても、母はそばに来て、精神的な介護を求めてきた。
思い通りにならないと、暴れる。殴る。泣きわめく。
私の時間は、いつも母の感情に差し出されていた。
高校生の頃、私は音大志望だった。
でも、ある時ふと思った。
このまま音大に進んだら、私は一生、親元を離れられないかもしれない。
それが怖かった。
ピアノは好きだった。
でも、親の家に残ったまま、その中で音楽を続ける未来を想像すると、息が詰まった。
高校三年生のギリギリで、私は進路を変えた。
准看護師の学校へ行く道を選んだ。
親はもちろん大反対だった。
親の思い通りの進路ではなかったから、学費も出さないと言われた。
家は裕福だった。
でも、親の望まない道を選んだ瞬間、私は経済的な支援の外に出された。
それでも、私は親に恩を着せられたくなかった。
奨学金を借りて、昼間定時制の准看護科に進学した。
看護助手として病院で働きながら、学校に通うことにした。
寮に入る選択もあった。
でも、その時の私は、すぐには家を出なかった。
まだ、どこかで親とうまくやりたい気持ちが残っていたのだと思う。
完全に切りたいわけではなかった。まだ、なんとかなるかもしれないと思っていた。
でも同時に、私は逃げ道も作っていた。
働きながら学校に行く。自分のお金を持つ。奨学金を借りる。
何かあった時、いつでも家を出られるように。
その頃、私はずっと迷っていた。
このまま我慢すれば、親元で何不自由ない生活はできる。
でも、親に全ての自由を奪われて、母の精神的介護に追われながら一生を終えるのも怖かった。
家を出るのも怖い。
家に残るのも怖い。
どちらを選んでも怖かった。
その頃、私の話を聞いてくれる人がいた。
私はたぶん、その人に母の話ばかりしていたのだと思う。
私の中は、母でいっぱいだった。
その時、その人に言われた。
「そのまま一生、全部を親のせいにして生きるの?」
「ほんまにそれでいいの?」
その言葉は、深く刺さった。
優しい言葉ではなかった。慰めでもなかった。少し責められたようにも感じたと思う。
でも、たぶん必要な言葉だった。
親が悪くなかった、という話ではない。
母のせいではなかった、という話でもない。
実際に、母に奪われたものはたくさんあった。
でも、これから先の人生まで全部母に渡してしまったら、私は本当に、自分の人生を一度も生きられないまま終わってしまう。
その人に出会っていなかったら、私はあの時、踏み出せなかったかもしれない。
*
准看護師の学校は、なんとか卒業した。
その後、正看護師になるための進学コースに通い始めた。そこでも働きながら学校に行った。
でも、准看護師の学校の時とは違った。
実習に取られる時間が多くなり、勉強する時間も必要になった。
准看護師の時のように、「何かあったらすぐ寮に出る」という状態ではなくなっていた。
それでも、あと三年なんとか耐えようと思っていた。
けれど、一年生の時、母の精神状態がかなり悪くなった。
私が勉強していても、そばに来ては精神的な介護を求めてくる。
応じないと、暴れる。殴る。泣きわめく。
休みの日も、母の買い物に一日中付き合わされた。
正看護師の学校は、准看護師の時よりもテスト範囲が広かった。実習もある。勉強する時間が必要だった。
教科書を開いても、文字が入ってこない日が増えた。
テスト範囲は広い。
実習もある。
でも、家に帰れば母がいる。
このままでは、私は卒業できないかもしれない。
そう思った時、初めて「家を出たい」ではなく、「出なければ終わる」と感じた。
あと二年半もこの家にいることは、もう無理だった。
私は、学校へ行くふりをして、こっそり就職先と家を探した。
母は四六時中、私の行動を監視していた。だから、堂々と準備することはできなかった。
一日だけ学校を休んで、家を出る準備をした。
奨学金の残りで、家を借りた。
防音室つきのマンションを選んだ。
そして、ピアノを買った。
小さめのグランドピアノだった。
普通に考えれば、先に買うべきものはピアノではなかったと思う。
布団。食器。鍋。カーテン。
生活に必要なものは、他にいくらでもあった。
布団のことは、後で考えればいいと思った。
でも、ピアノだけは後回しにできなかった。
ピアノは、もともと母に無理やり習わされたものだった。
学校から帰ったら、ピアノの練習。勉強。母の話を聞く時間。母の機嫌を取る時間。
私の放課後は、だいたいそのどれかで埋まっていた。
だから最初、ピアノは大嫌いだった。
でも、いつの頃からか、ピアノを弾いている時間だけは、少し息ができることに気づいた。
音が鳴っている間、母はあまり私を監視しに来なかった。
ピアノの音が、私がそこにいる証拠になっていたからだと思う。
ちゃんと練習している。
ちゃんと家にいる。
ちゃんと母の望む子どもをしている。
その音が部屋に響いている限り、私は監視されながらも、少しだけ母から離れられた。
ベートーベンの暗い曲が好きだった。
明るくて、きれいで、楽しそうな曲よりも、重くて、沈んでいて、どこか怒っているような曲の方が、自分の中に近かった。
泣きながら弾いたこともある。
その時の私は、言葉では何も言えなかった。
苦しいとも、逃げたいとも、怒っているとも言えなかった。
でも、音の中では少しだけ言えた気がした。
ピアノは、母に与えられたものだった。母に強要されたものだった。
それでもいつの間にか、私が自分の気持ちに触れられる、数少ない場所になっていた。
だから、ピアノだけは手放したくなかった。
*
家を出る時、両親には本当の理由を言わなかった。
この家にいたら、もう学校を続けられない。母の精神状態にこれ以上付き合っていたら、自分の人生ごと飲み込まれる。あと二年半も耐えられない。
そんなことを言っても、通じないことはわかっていた。
だから私は、別の理由を用意した。
「もう正看護師になりたくない」
「准看護師として働く」
「遠くの病院しか就職が決まらなかったから、一人暮らしする」
そんなふうに説明した。
住む場所は、病院の寮だということにした。本当の住所も、就職先も教えなかった。
居場所が知られるのが怖かった。住民票も、実家に置いたままにして出ていった。
家を出る話は、居間で両親にした。
母は、いつも通り泣きわめいた。暴れて、怒って、私を殴った。
父も怒っていた。
「学校はやめたらいかん」
そう言われた。
普通に聞けば、娘の将来を心配する言葉だったのかもしれない。
でも、私にはそう聞こえなかった。
私のために言っているのではなく、私を家から出ていかせたくなくて言っている言葉に聞こえた。
その頃には、私はもうだいぶ親に対して冷めていた。
母が泣きわめいている。暴れている。殴ってくる。
昔なら、怖かった。
どうにかしなきゃと思った。私が悪かったのかもしれないと思った。母を泣かせた自分を責めた。
でもその時の私は、かなり冷たい目で母を見ていた。
距離としては、すぐ近くにいた。
同じ居間にいて、母の声も、怒りも、手も、全部届く場所にいた。
それなのに、心はずいぶん遠くにあった。
まるで、少し離れた場所から、またいつもの場面が始まったな、と見ているようだった。
母が暴れている。
父が怒っている。
でも私は、もうその中には戻らない。
そう決めていた。
ただ、その時は絶縁までは考えていなかった。
「また、休みとか戻れる時に帰ってくる」
そう言って、なんとか家を出た。
案の定、親は言った。
「出ていくなら、何も持っていくな」
「この家にあるものは、全部お前のものじゃない」
そう言われることは、十分に想像できていた。
だから私は、心の中で「はいはい」と思った。
泣き崩れることもなかった。説得する気もなかった。わかってもらおうとも、もう思っていなかった。
この家にあるものは、全部私のものではない。
その言葉は、ひどい言葉だったはずなのに、どこかで腑に落ちてもいた。
そうか。
やっぱり、そうだったんだ。
私が着ていた服も。
習わされていたピアノも。
勉強するための机も。
子ども部屋も。
外から見れば与えられていたように見えたもの全部。
それは、私のものではなかった。
親の思い通りに生きている間だけ、使うことを許されていたものだった。
だから私は、着の身着のまま家を出た。
財布。通帳。印鑑。保険証。
それだけは持っていた。
服は、毎日同じものを着ていても目立ちにくいものを選んだ。寒くなる頃だったから、一番分厚いコートを着て出ていった。
そのコートも、親にもらったものだった。本当は、それすら持っていきたくなかった。でも、さすがに裸で出ていくわけにはいかなかった。
下着と、ピアノの楽譜を一冊だけ、バッグに隠して持っていった。
生活に必要な最低限と、私でいるために必要な最低限。
その二つを、私はバッグの中に入れて家を出た。
*
初めての一人暮らしだった。
部屋は二つあった。
ひとつは、防音室にしたピアノの部屋。もうひとつは、居間。
ピアノが運び込まれたあと、私は家具が何もない部屋を見た。
そこで、ようやく気づいた。
そういえば、寝る場所がない。
家を飛び出す準備は、あまりにも慌ただしかった。
母に監視されていたから、必要なものをゆっくり揃える時間もなかった。
調理器具も、家具も、生活用品も、ほとんどなかった。
近所のお店に行って、段ボールを三つか四つもらってきた。
何に使うのか聞かれたら困るなと思いながら、店の人に段ボールを分けてもらった。
それを居間の床に敷いた。
秋口で、少し寒かった。
カーテンはまだ買っていなかった。でも、ベランダから丸見えになるような部屋ではなかったから、とりあえずなくてもいいと思った。
電気は、もともとマンションについていたものをつけた。
私は段ボールの上に寝転んだ。
床は硬かった。
段ボールは、もちろん布団ではなかった。
身体を預けるには薄すぎて、寝返りを打てば音がした。
でも、そんなことは不思議なくらい気にならなかった。
私は天井を見ながら、ぼーっとしていた。
静かだな。
やっと、一人になれた。
そう思った。
その部屋には、誰も入ってこなかった。
勝手に扉を開ける人もいなかった。
私のカバンを探る人もいなかった。
泣きながら感情を預けてくる人もいなかった。
一日中、買い物に連れ回す人もいなかった。
何もない部屋だった。
布団もない。食器もない。調理器具もない。カーテンもない。
生活らしい生活を始めるには、あまりにも足りないものだらけだった。
それでも私は、安心していた。
やっと、誰からも侵害されない部屋ができた。
その安心感の前では、布団が段ボールであることなんて、本当にどうでもよかった。
とりあえず就職はした。最初の給料が入ったら、布団を買えばいい。
食費もほとんどなかった。
病院で職員食のお弁当を頼んだ。代金は給料から天引きだった。
そのお弁当を、半分は職場で食べた。残り半分は、家に持って帰って食べた。
ちゃんとした暮らしとは言えなかったと思う。
でも、あの頃の私には、ちゃんとした暮らしよりも先に必要なものがあった。
誰にも入ってこられない部屋。
誰にも監視されない時間。
誰の感情も介護しなくていい夜。
初めての夜、安心はしたけれど、落ち着かなかった。
眠りは浅かった。
怖くはなかった。
でも、頭の中にはまだ親のことがあった。
居場所がばれないだろうか。今頃、怒っているだろうな。また何か言ってくるだろうか。
当時、私は携帯電話も持っていなかった。
親が常にかけてくるから、携帯を持っている方が不自由だった。
連絡が取れることは、安心ではなく、監視につながることだった。
だから私は、携帯を持たずにいた。
誰にもすぐには捕まらない夜。
段ボールを敷いて、コートをかけて、浅い眠りにつく夜。
隣の部屋には、ピアノがあった。
母に強要されて嫌いだったはずのピアノ。
毎日練習させられて、泣きながら弾いたピアノ。
でも、弾いている間だけは、母の監視から少し離れられたピアノ。
私はそれを、初めて自分のお金で、自分の部屋に置いた。
母のものでもない。
親の見栄でもない。
習い事でもない。
課題でもない。
そのピアノは、初めて私のものだった。
親の家には、物はたくさんあった。
でも、私の自由はなかった。
あの部屋には、物はほとんどなかった。
でも、誰にも侵害されない静けさがあった。
翌朝、身体は少し痛かった。
段ボールの上で寝たのだから、当然だと思う。
それでも私は、静かな朝を迎えたことに安堵していた。
母の声で起こされることもない。
誰かの機嫌を読んで一日を始める必要もない。
昨日の母の怒りの続きを、朝から引き受けなくてもいい。
ただ、静かだった。
あれは、立派な自立ではなかった。
布団も、食器も、カーテンもない。
お弁当を半分ずつ食べて、段ボールの上で眠る。
大人から見れば、危なっかしい家出だったと思う。
それでも、あの時の私は、たぶん間違っていなかった。
どれだけ物に満たされても、心が自由でなければ満たされないことを、私はずっと近くで見ていた。
お金よりも、心の自由が大事だった。
あの夜だけは確かに、
私は誰の娘でもなく、誰の感情の受け皿でもなく、
ひとりの人間として、静かな天井を見ていた。
段ボールを布団にして眠ったその部屋で、
私は初めて、自分の人生の音を少しだけ取り戻した。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいた応援は、これからも必要な夜にそっと届く文章を書くために、大切に使わせていただきます。読んでくださるだけでも、とても励みになっています。