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大正のはなし(あきつしま)3

大正7年

1918年3月、東部戦線では、帝政ロシアの崩壊を経て誕生したボリシェヴィキ政権とドイツとの間に「ブレスト・リトフスク条約」が結ばれ、独ソ戦はドイツの勝利に終わる。ロシアは広大な領土(ポーランド、バルト三国、フィンランド、ウクライナなど)を割譲し、革命に没入していく道を選んだ。これにより、ドイツは悲願である西部戦線への全力投入を可能とし、再び戦局は動き出した。

初夏、ドイツ軍はかつての快進撃を彷彿とさせる勢いで進み、ついにはパリの手前90キロにまで迫る。しかし、その地で彼らを待ち受けていたのは、新たに到着したアメリカ軍の反撃であった。6月以降、米軍の参戦は戦局を大きく揺るがせ、やがて連合軍――英仏を中心とする陣営は、8月には総反攻に転じる。

戦争の趨勢は、静かに、しかし決定的に変わり始めていた。
10月、ドイツでは和平を望む声が高まり、バーデン公が首相に就任し、講和への道を模索する。しかし、すでに遅かった。
11月9日、皇帝ヴィルヘルム二世は王冠を捨て、亡命の途につく。長きにわたって欧州の中心にあったドイツ帝国は、その瞬間に幕を下ろした。
そして11日、列強の間で停戦協定が結ばれ、4年半に及ぶ大戦は、ドイツの降伏によってようやく終焉を迎えた。

同じ年、ロシアでは新政権を率いるレーニンが、もはや存在すら危険視されるかつての皇帝ニコライ二世とその家族を、ひそかに、そして容赦なく葬る。
ロマノフ朝の終焉は、まさしく時代の転換点を象徴する事件であり、革命という名の激流は、過去をことごとく押し流してゆく。

一方、日本では、政治のうねりが新たな波を立てていた。
この年、「平民宰相」と称された原敬が、華族ではない初の内閣総理大臣として政党内閣を組閣する。陸海軍および外務の要職を除けば、民意に根差した政治の芽が、ようやく国家の中枢に根を下ろしはじめた年でもあった。

戦争の終わりは、世界を安堵させるどころか、むしろ新たなる混乱の前夜を思わせた。帝国が崩れ、革命が起こり、人々は平和と共に、混沌の時代を生きねばならなかった。


大正8年

1919年1月18日、凍てつく冬のパリ。戦勝28か国の代表がヴェルサイユ宮殿に集い、講和会議が幕を開けた。そこには、歴史の転換点を自らの筆で刻もうとする国家の使節たちがいた。しかし、そこに敗れた国々の姿はなく、またロシアの大地に新たな旗を掲げたソビエト政権もまた、会議の外に置かれたままであった。

会議の中心には、日・英・米・仏・伊の五大国が並び立ち、未来の地図を描こうとした。そのなかにおいて、日本もまた、列強の一角としてその座を得ていた。だが、その誇りの陰には、世界の深く根差した壁と、容易に動かぬ偏見の影が落ちていた。

2月13日、日本は会議の場において、ある提案を静かに差し出す。それは「人種差別撤廃」を求めるものであった。世界の民が、人種の違いにより不当に扱われぬことを望んだこの提案は、4月11日の投票にて、11対6という賛成多数を得る。だが、米国のウィルソン大統領は、「満場一致でない」という理をもって、その採択を拒んだ。

正義は、時に理想により支えられながらも、現実の利害の前に後退する。
そしてこの年、国際連盟という新たな平和の枠組みが形をなしていくなかで、人種という目には見えぬ境界線が、なお世界に横たわり続けていることが、あらわとなった。

朝鮮半島では、1月21日、かつての朝鮮王朝最後の王、高宗が、ソウルの徳寿宮にて静かに息を引き取った。享年67。

そして3月、厳しい寒さの残る春のはじまりに、民衆は立ち上がった。
「独立」の二文字を胸に掲げ、数十万におよぶ人々が、京城(ソウル)をはじめとする各地で声をあげた――三・一独立運動である。
その叫びは、やがて流血と弾圧を伴うこととなったが、それでも民族の魂は、ひとたび目覚めた灯を消すことはなかった。

中国においてもまた、若き知性と情熱が燃え上がる。
5月4日――北京大学の学生たちは、日本による山東権益の継承に抗議して立ち上がり、やがて全国に広がる「五・四運動」となる。
列強による支配構造への反発と、近代中国の自己覚醒が、ここに胎動を始めた。

一方、ロシアでは、帝政が崩れたあとの大地が、なお赤と白とに引き裂かれていた。
共産主義という新たな理想のもと、レーニン率いる赤軍が旧体制の白軍と激しく争い、その内戦のさなか、3月には「コミンテルン(Communist International)」が創設される。

世界の革命を呼びかけるその声は、やがてアメリカ大陸にも届き、この年、米国においても「アメリカ共産党(Communist Party USA)」が結成されるに至った。

しかし、アメリカでは同時期に「赤の恐怖(Red Scare)」と呼ばれる共産主義への激しい警戒感が広がっていました。FBIの前身である捜査局が社会主義者・無政府主義者への弾圧を強化し、多くの活動家が逮捕・国外追放されました。

大正八年、晩春から初夏へと移ろう季節のなか、若き皇太子・裕仁親王は、満18歳の節目を迎え、5月7日、帝国議会貴族院の皇族議員に列せられた。
凛とした面持ちで議場に臨むその姿には、国家の未来を担う者としての重責と、年若き故の緊張が、静かに同居していた。
帝国の歩む道が、かつてないほど複雑に絡み合っていたこの時代。青年皇族の双眸に映る国政の景色は、いかばかりであったろうか。

その頃、海の向こう、ヨーロッパ大陸では、大戦の爪痕を引きずりながら、新たな秩序を形づくるための会議が、厳かに、しかし密やかな駆け引きと共に進んでいた。
1919年6月28日、第一次世界大戦の正式な終結を告げる「ヴェルサイユ条約」が、戦勝国と敗戦国との間で調印される。
会議は理想と現実、信義と国益の間で揺れ、やがて「日・英・仏」対「米・中」という構図が浮かび上がる。
それは単なる外交の駆け引きではなく、東西の価値観のずれ、そして帝国主義と民族自決という二つの理想の衝突でもあった。

日本は、戦勝国の一員として、ドイツが持っていた山東省の権益をそのまま引き継ぐことに成功した。
また、赤道以北のドイツ領南洋諸島――サイパン、パラオ、マーシャルなど――の信託統治を国際連盟より託されることとなった。
そのなかにはグアム島は含まれず、すでにアメリカの手にあったが、日本の南方への影響力は、かつてなく広がりを見せる。

しかし、こうした成果の陰で、各国との摩擦は決して小さなものではなかった。
日本が講和会議にて提案した「人種差別撤廃案」は、正義と普遍性を訴える試みであったが、米国の反対により棚上げされ、夢半ばに終わる。
それは、勝利の余韻のなかに、一つの苦い種を宿すこととなった。

同じ頃、敗戦国ドイツでは、王政が完全に崩れ去り、ワイマール憲法のもと、近代的な民主国家「ドイツ共和国」が誕生する。
だが、それは新たな自由の兆しであると同時に、激しい混乱と不安定さを内包する、新しい試練の時代の幕開けでもあった。



【第一次世界大戦後の講和会議】

1919年、第一次世界大戦の終結を受けて開かれた「パリ講和会議」では、戦勝国によって敗戦国への処分や新しい国際秩序の形成が話し合われました。主導したのはイギリス、フランス、アメリカなどの列強国で、特に米国大統領ウッドロウ・ウィルソンは「十四か条の平和原則」を掲げて民族自決や国際連盟の設立を提唱しました。

この会議での重要な成果の一つが、「ヴェルサイユ条約」の締結です。これはドイツに対して、領土の一部割譲、巨額の賠償金支払い、軍備縮小などを命じるもので、ドイツ国民に深い失望と屈辱感を与える結果となりました。これがのちのワイマール共和国の不安定さ、さらには極右勢力の台頭につながっていきます。


【ユダヤ人とドイツの関係】

19世紀から20世紀初頭にかけて、ドイツはヨーロッパ諸国のなかでも比較的ユダヤ人に寛容な社会でした。法的にはユダヤ人も他の市民とほぼ同等の権利を持ち、教育、金融、医療、法曹界などさまざまな分野で活躍していました。

しかし一方で、反ユダヤ感情は社会の底流に常に存在していました。ユダヤ人が成功するにつれ、「経済を牛耳っている」「忠誠心がない」などの偏見が生まれ、ユダヤ人に対する根拠のない不信感や陰謀論が徐々に醸成されていきます。第一次大戦中も多くのユダヤ人がドイツ軍に従軍し、命を落としましたが、戦後には「ユダヤ人がドイツを裏切った」とする風説が広まり、それが社会不安のなかで広く信じられるようになっていきました。


【バルフォア宣言とシオニズム】

1917年、第一次大戦中の英国政府は「バルフォア宣言」を発表しました。これは、パレスチナにおいてユダヤ人の「国家的郷土(ナショナル・ホーム)」の建設を支持する旨を示した書簡です。背景には、ユダヤ人の支持を得て大戦を有利に進めたい英国の思惑や、シオニズム(ユダヤ人国家建設運動)の国際的な広がりがありました。

ただしこの宣言は、当時すでにパレスチナに暮らしていたアラブ人住民との対立を内包しており、後の中東問題の火種ともなりました。また、英国はアラブ側にも矛盾する約束(フサイン=マクマホン書簡など)をしており、混乱の原因となりました。

ユダヤ人国家の建設に向けて活動したシオニスト運動の主な目標は、ユダヤ人が差別や迫害から解放され、安全に生きられる土地を確保することでした。これは欧州での長い差別の歴史に根ざした切実な願いでもありました。


【ナチスによるユダヤ人迫害の背景】

ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害は、経済的不安、民族主義の過激化、長年の偏見、そして第一次大戦後の敗北感が複合的に作用した結果と考えられます。ヴェルサイユ条約による屈辱感や、世界恐慌の影響でドイツ社会が動揺していたとき、ナチスは「ユダヤ人がドイツを裏切った」「国を操っている」といった虚偽や偏見に基づく言説を用いて民衆の不満を巧みに煽りました。

このようなプロパガンダによって、ドイツ国民の一部はユダヤ人に責任を押しつけ、排除しようとする動きを支持するようになっていきます。その結果が、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)という未曾有の人道犯罪へとつながるのです。


歴史を学ぶことは、過去の過ちを再び繰り返さないためにこそ意味がある。


バルフォア宣言(Balfour Declaration) 

【英語原文】

    Foreign Office,        
November 2nd, 1917

Dear Lord Rothschild

                     I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty’s Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet
                "His Majesty’s Government view with favour the establishment in             Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best         endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly             understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and         religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the             rights and political status enjoyed by Jews in any other country."
             I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.

Yours sincerely     
Arthur James Balfour


【日本語訳】

外務省、1917年11月2日

親愛なるロスチャイルド卿 

国王陛下の政府を代表して、内閣に提出され承認された、ユダヤ人シオニストの熱望に共感する以下の宣言をお伝えできることを大変嬉しく思います。

「国王陛下の政府は、パレスチナにユダヤ人の国家を樹立することを支持し、この目的の達成を促進するために最大限の努力を払うつもりであるが、パレスチナの既存の非ユダヤ人コミュニティの市民権と宗教的権利、または他の国でユダヤ人が享受している権利と政治的地位を損なうようなことは一切行われないことは明確に理解されている。」

この宣言をシオニスト連盟にお伝えいただければ幸いです。

敬具              

 アーサー・ジェームズ・バルフォア

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