ネットの情報に振り回されない:ネット以前、「かわら版」の時代だったころを思い返してみると
はじめに
ネットの時代といえる。最近のこのクニの趨勢からも如実にわかる。世のなかのようすを知りうるメディアがテレビ、ラジオ、新聞、書籍や文献などだった時代をかえりみる。「知」を渇望するヒトビトはどうしていたのだろうとふり返ってみる。
きょうはそんな話。
情報の時代
江戸時代の庶民はどのように情報を伝え合っていたのだろう。幕府の意向を「御触書」の世間向けの簡素な表現から想像することは難しいだろうし、それ以外でどうやってその意図や目的の本質を知れたのか。
例えば他の藩などは「御達」や参勤交代などの機会を通じて、庶民よりは知り得たかもしれない。もはやそれ以上を探る、あるいは公で話すことはご法度とされていただろうが、それなりに状況をつかめて動けたヒトビトもいるにはいただろう。
情報の出どころ
情報の出どころは?そしてそれがはたして正しいか否かはどうやって知り得たのだろう。そうでないと自らの行動の根拠が怪しくなってしまいかねない。
庶民の立場にもどろう。そんな幕府の権力闘争などの多くは一部を除くと、まったく日ごろの生活には無関係な世界だったのかもしれない。お国替えなどで藩主が変わったとて、すぐに生活に変化はなかっただろう。
だが、大乱や明治維新の際などどうやって知り得たのだろう。自分たちが巻き込まれてしまうかもしれない。原因はわからぬまま身近なところで前触れがさまざま起こり、憶測が行き来したかも。結果としてほとぼりがさめたころ、地方に遅れてようやく真実が伝わったのかもしれない。
いまもじつは同じ?
ひるがえり今。上で記したことは本質的には一部は変わらないかもしれないと首のあたりがすこしぞわぞわした。じつはわたし自身ほんとうのところは知りえていないのでは。そんな予感がしてしまうできごとがつづく。意外と本質の兆候をつかめても、それをたしかめる術はあまり150年むかしといまとをくらべてもあまり変化していないかも。
ネットがこれだけ世界じゅうをめぐっても、日々ながれている情報のたしかさ加減なんてなかなかわからない。もはや旧知の情報の発信源さえ、なりすましかもしれないと疑心暗鬼になってしまう。もはやきりがない。
情報量が多いだけで
いまの世界の多くのヒトビト(一部地域を除く)の目にできる情報量はたしかに多い。江戸時代の庶民とくらべることはできないが、おそらく途方もない量だろう。大河のごとく流れる情報の質はどうか。むしろ江戸のヒトビトのまわりの情報とのちがいは何だろう。なにはともあれ情報の真偽を見極める力を養うのはもはや必須事項。
基本的に安寧が保たれれば、ふだんの施政のあり方を意識せずとも生活はできる。ただし主権は国民にあるのだから、各人の意向に沿うべくその面での常なる関心は必須だが。むしろ日々のくらしにどう結びつけて考えられ、その理想のクニのあり方を実現するために、選んでいくのに必要な確度の高い情報の呈示がたいせつ。
おわりに
上に記したように、現代のヒトビトにとり情報の取捨選択はとてもたいせつ。いかに惑わされない、流されないでいれるか、情報受信・発信のリテラシーをもてるかなど、あらゆる力を養わねばならない。くわえて世を惑わしてはいけない。そうでないとそこそこの権力や支持をあつめたヒトの意見や発する言葉で世のなかがあっさりうごいてしまいかねない。
そんなようすはどこかあらたな底知れない不安を呼んでくる。どうしたら惑わされないのか。自戒をこめつつあげてみた。
・さまざまな情報がふだんづかいのメディアに流れてきても考えないまま飲
みこまないこと。
・自ら築いてきた自分なりに確固とした芯となるもの、意思をもつこと。
・ふだんから出どころや根拠のあやしい言葉にはもとから疑念でもって接す
ること。
・情報の出どころとして一次情報が示されているならばかならずそちらを確
認すること。
どうやらこのあたりからかも。
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