自分よりも身内、身内よりも他人に目が向くのは

はじめに
このところ自分のために時間をどれほど使っているだろう。その一方で老いた両親は不自由してないか、支援サービスは行き届いているだろうかと気になる。それからいくつか行う他人様へのサポートはそれぞれのヒトのためになるだろうか。各々に割いている時間のバランスは⋯。
きょうはそんな話。
ヒトと関わる以上は
この世のなか、ヒトと関わりつつ生きるしかない。山奥で動力や水を確保して食べもの、寝場所の確保など衣食住をひとりで継続してやろうとすると難しい。
なにかしら生産し、それを必要とするヒトビトと交換し、あるいは通貨ないしべつの手段で報酬を得てようやく生きられるのが普通。たとえば水。このクニ(世界どこでもそうだが)で安心して飲める水を自分で1から確保するだけでもかんたんでない。
では社会と関わる、お互いが協力し合い生きていくうえでどれほど貢献できるだろう。身内や親類ですらそこそこいるし、学校や会社など他人とのやりとりの数はさらに増して複雑に。
例外なく
わたしなりに社会との関わり合いをもちつつすごす。さまざまなかたちで支えられているとおのずとわかる。健康保険しかり。いずれは年金をいただく。そんなお金の面だけでなくよく見わたすと大なり小なり周囲のさまざまな方々に支えられているとわかる。
同時におのずとヒトとの交流を意識する場面がある。それは家族など身内にかぎらない。ふだん使いの店でもそう。そこでなにがしかの料金を払うだけでなく、店員さんたちと顔見知りになり、かんたんなあいさつや会話をかわす関係になる。
しごとの取引先などの方々もやはりそうであり、親しくなるといろいろと話す話題がひろくなる。それで関係性が深まる。
気づくようにしたい
さまざまなかたちでまわりに気を払う場面がある。それにはこちらからの気づきが必要かも。手をさしのべてほしい場面で気をまわせるように、そしてなるべくサポートを受ける方々に心理的な負担のかからないようにさりげなく行えるとなおいい。
たとえば街なかで。あとにつづく方のためにドアを押さえておく、エレベーターの「開く」ボタンを押したままにする、エスカレーターはからだや荷物を脇に寄せるなど。やってもらって感謝したことを今度は自分からやってみる。
車の運転時もそう。前方の右折したい車へ合図を送る、横断歩道に間もなくさしかかりそうな歩行者がいると徐行以上に停止の準備にはいるなど。
おわりに
サポートに話をもどそう。そんなこんなで自分の時間は確保できているだろうか。自分を生きているといえるだろうか。ふと思うことも。いやそんなふうにかならずしも思わなくてもよさそう。支えて、支えてもらいおたがいさま。それでいい思う。
ヒトをなにかしらサポートしている時こそもっとも充実している時間といえるから。わたしにとってはたしかにそうにちがいない。その場でなくても受けたサポートをつぎの世代へ受け渡してもいい。
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