文章をヒトに誤解されずに伝えるには文章づくりのそれなりの作法とTPOがある
はじめに
さまざまな文章をつくってきた。小論文、学術論文、レポート、契約書、報告書、リーフレット、クラウドソーシング、手紙、はがき、メール、日記…、そしてnote。
こうした文章は読み手がそれぞれちがう。おなじ読み手でもときと状況でちがうし。まずは内容を把握してもらえる前提についてはどれもおなじかな。
意図したとおりに相手につたえるには。じぶんなりに気づいた点を。
誤解を生まないように
とくにメール。これはなかなかむずかしい。短文で基本的に絵文字をつかわず、句読点をうつのがわたしのスタイル。するととたんに相手が曲解しないようにいくつか気をつけている。
①すこしだけ長めに言葉をおぎないつつ打つ。
②かならず読みなおして誤解されないか、誤字脱字のチェック。
③相手によぶんな確認のメールの手間をかけさせずに済むか。
④内容にそくして適切な言葉をえらんでいるか。
これらの作業、いそぐときにはなかなかわずらわしいし気をつかう。もうどうしようもなく誤解が避けられないときには、zoomで表情を見ながらか電話で相手の反応を把握しながらつたえる。
気になる
最近、気になること。CCでメールを共有し、第三者どうしのメールのやりとりを見る機会がある。
どうもまわりのごたごたの多くはちょっとしたメール中の言葉のあやや、メール内容のおたがいのとりちがえや行きちがいからおこりがちなよう。ふだんからのコミュニケーションを念入りにしたほうがよさそう。
日本語の微妙さと奥ゆかしさは、メールのやりとりの場にはそぐわない。会話ならばどう発語するかでニュアンスがちがう。句読点をつけるだけでもそう。強制や断定調にみえてしまうかもしれない。そのちがいはもちろんメールではつたわらない。ほほえみながら会話でつたえるのとはわけがちがう。
ただしほほえんでいても、「No.」もあるけど…。
どうもしっくりこないし、まどろっこしい。べんりな手段だが限界がある。微妙な状況などはメールはあぶない。日常つながっているヒトとのあいだの交信の手段としてはこころえてつかおう、むしろきけんをひめているとさえ思えてしまう。
ツイッターもしかり
これはツイッターもしかり。短文で言い切るかたち。基本的にやりなおしがきかないまま、世のながれにのってしまう。みずからの発信の場としてはどうもあやうい。やっぱり距離をおきがちで、ほのぼのとしたものや、見たままありのままのものにかぎっている。しかもふだんじかに会話できて交流できるヒトとはいっさいやりとりしない。ほぼかならず誤解をされそう。
みじかい文だけにそのまま受けとられてしまう。いちど受けとられた印象は、そののちになってもつみかさねられ、いったん帳消しになるわけではない。いずれ大きな乖離となりかねない。
リモートの画面では
さきほどふれたリモートでのやりとり。こちらはメールよりもましだが、じっさいに対面するのともちがう。やはり相手の声のニュアンスは機械音にかわるためか、じっさいに会う以上にねんいりに確認をもとめそう。
したがって、最近よくおこなわれがちな大人数でのリモート会議や質疑応答などでは、現実に集まっておこなう会場の雰囲気などは存在しないので、議論のながれや、ヒトビトのちょっとしたうごきやどよめきなどの印象ぬきでやりとりをすすめていかねばならない。
リアルな場ばかりを経験した身には、けっこう判断材料にとぼしい。その場の理解を一致させつつまとめていくというむずかしさがくわわる気がする。
自己責任はおなじか
いずれにしても文章を発信する以上は、責任をじぶんがもたねばならない。あらぬ誤解でもって他人を傷つけてはならない。相手だけでなくじぶんにとってもよくない。毎回がわたしへの評価の対象となるものという意識がもとめられる。
