歌詞のない音楽でも旋律だけでこころをゆさぶられる感覚が湧き起こる
はじめに
けっこう音楽を聴く。もっぱら歌詞よりもメロディー中心。家でも車でもBGМとして聞き流す。海外の曲でも構わない。今はいながらにして世界中から好きな曲をみつけられる。現在でも過去でも、手あたりしだいにさがせてそれなりにみつかる。
ヒトの好みの楽曲とはおなじ人類であるかぎりそんなにちがいはない気がしてくる。曲の雰囲気から湧き起こる感情が奏でる楽器からつたわるからふしぎなもの。
きょうはそんな話。
ロックこそ
このところよく聞くのはロック。しかもけっこうハードなもの。一方、学習サポートでいっしょに学ぶ中・高校生たちはおとなしめの曲をよく聴くらしい。あきらかに好みがちがう。つたえられた曲をいくつか聴くとたしかにおとなしい。わたしの好むほうがはるかにアップテンポでエレキギターやドラムがガンガン響く。
わたしのくたびれかけたポンコツあたまにはこれでようやくとどくのかもしれない。若いヒトビトの繊細さはもはや消し飛んでしまった。とはいえ10代で聴いた曲たちが原点なのはいまのわかいヒトビトとおなじはず。今でも満足せずに、あきらめきれずにひきずっているだけかも。
その一方で
そんないずれの曲のほんの何音かにすぎないフレーズにこころがゆさぶられる。あきらかにものさびしさとか、なつかしさとかの追憶の感情が出てくる。なぜ最近つくられた曲でもどこか遠いむかしに聴いたような感覚が沸いてくるのだろう。なぜ数音にすぎない音の羅列にさまざまな想いとともにその感覚が内包されているのだろう。
どうもヒトビトと共通でそんな曲のおなじ部分で、そうした感情のうごきがあるらしい。聴く曲にはファンによるリアクションビデオなどがよく付随する。ヒトビトの感想にうなづく。同感だなあ。これはクラシックでも同様だし、ロックでも曲のジャンルに関係なくある。
ふしぎさ
これはほんとうにふしぎなもの。これまでに経験した行動、ヒトから聞いた話、映画やアニメなどにともなう音楽の積みかさね。さまざまな経験にともなう感情がそこにあるからか。それと同調すると「なつかしい」とか思えるのかもしれない。
あるいはもともとニンゲンの遺伝子に、ある音やフレーズはこんな感情が想起されるものと刻まれているのかも。生きながらえるため、防衛本能として記されているものなのか。
たしかに
幼い子の声は高く、成人したおとなは低い声。あきらかに相対していなくても区別はつく。おなじように動物の鳴き声もそう。軽やかな鳥のさえずりとライオンの吠えるようすでは聞き手の感情はあきらかにちがう。
都会の騒音と森のなかでたたずむのではおちついていようともベースの感情はことなる。ましてやヒトビトに感情の波をひきおこそうとするエモーショナルな音楽ではなおさら。作曲するヒトビトとはこうした音や旋律、調べにのせてなにやかやと表現して引き出すのがしごとといえそう。その能力に長けているのだと思う。興味深いがとてもまねできない。
たしかに長調と短調では聴いた感覚はちがう。琉球の音階は独特だし、日本の本土の古くからの曲にありがちな陰音階は、ピアノで特定の鍵盤を指でつぎつぎにたたくだけでそれっぽくなる。どこか独特でしめりけや奥ゆかしい調べとなって聞こえるからふしぎ。
おわりに
わたしにとってロックは「懐メロ」なんだと思う。勇気をもらったり前向きにとらえたり聴くたびに元気をもらえたり。旋律をいつのまにかおぼえて鼻歌ででてくる。歌詞にはあまり左右されない。もちろん原曲はそんな歌詞にもしっかり想いをこめたのだろうが、どちらかというとメロディーこそ耳への癒やしなのかも。
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