研究していて興味深い現象がみつかるのはたいていひとめぐりしてすぐその先にありがち

はじめに
ここはルーブル美術館。わりとめだつ通路の途中と言っていい通路の途中のような場所にミロのヴィーナスを展示している。いやおうなく先にあまたある名画をめざすヒトビトにとってこの見上げるばかりの像を見過ごすことはほぼあり得ない。大勢のヒトビトはたいてい美術雑誌でよく見る正面のある位置からながめている。四方八方からぐるりと見てまわれるのだが…。
そう思いつつ、ヒトビトとは一線を画してひとあじちがう行動に出た。この例えは生命科学を研究分野にするわたしの特徴をあらわしているといっていい。
きょうはそんな話。
研究を美術館での観覧にたとえると
フランスのルーブル美術館。絵画や彫刻などで文字どおりあふれかえっている。

ある回廊をえらんだ観覧者がまず最初のほうで目にするのがミロのヴィーナス。これが見つかった経緯はおもしろいがここでは触れない。
たいていこの像は否応なく目に入る。とても見落とせないほど大きい。多くの方々はひろいフロアなのにわりと1か所にあつまってそこからこの像を見上げている。つまり正面右側で歩をいったんとめて数十秒。美術のテキストなどで見るおなじみの向き。そこから見上げると多くの方々は満足したのか先を急ぐ。
観覧の例えの行動
そんなヒトビトのようすには興味を示さず、おもむろにひとりで像の裏へまわる。じつに大きい。目に焼きついたこの像のうしろすがたを知りたかった。この像には両腕がない。すでに発見されたときからそうだったとされている。でも正面から見上げるといまの状態で均整がとれている。
すぐれた彫像はどの部分をみても完成している、うつくしいとされる。まさにそう。じゃあ、うしろすがたはどうだろう。この像のうしろなんてどんな本にも図録にもない。
何が知りたかったか
ヒトが関心を示さなかったところにこそ、おもしろさが隠れているのでは。まさにそう。正面からは見るヴィーナスは衣をまとっているが、なかばはだけて胸があらわ。とするとあったかもしれない両腕はどういうしぐさだったのだろう。新しい研究ではりんごをもつ腕がみつかったとされるが。
思いがけず手で落ちかかる衣をおさえていたのか。あるいはなにかをたずさえていたのか。正面の堂々としたようすからあらたに知れることはあまりなさそう。手がかりが背面にないかどうか気になった。
うらにまわってはっとした。衣はずりおちかけおしりの一部が見えていた。そうか「かなりぎリぎりの状況」だったのに、あの堂々とした表情を保っていたわけか。両肩にはなにも衣をおさえようとするような腕に力が加わるようには見えない。つまりはだけかけた衣に正面、背面ともにかまっていない、なるにまかせているかのよう。
つまり何が言いたいか
さて、生命科学の研究のわたしのスタンスもじつはそうかもしれない。かなりの研究者の方々はそれぞれのときどきの流行の研究対象へむかう。それは垂直な岩壁を素手で登るかのようなハイリスク。
ハイリターンかどうかはわからない。なにしろ大勢がかかわるのでだれかがあたりくじをひくかもしれなし、もしくはあたりくじさえもともとないかもしれない、あるいは究極なまでにあたらないかもしれない。
研究のスタンス
それにひきかえわたしは平原をうろつく。ローリスク・ローリターンに徹している。こちらとてハイリターンはそもそも期待しない。長年つづけることをつうじてご褒美としてわずかにリターンが上がる程度。それでいい。
そこにときとして草かげに隠れるかのような興味をそそる現象がみつかるから。それをみつける楽しみがすくなからずあり、つづけているとほぼかならず出会えるから。うしろ指をさされたり、ひそひそ話がたまに聞こえたりするが気にしない。埋もれてしまうより、後世に残せる確実な道しるべを残せるほうを選びつづけたい。
おわりに
ヴィーナスのたとえはいらないかもしれない。でもわたしとて生命科学をまなびつづけるはしくれ、美術にも興味がある。それらをむすびつけてニンゲンという存在のふしぎさをじ~っとみつめてきた。
おそらくこの像を作った人物(判明していない)もきっとそう。そんな作者とのシンパシーをこの像からすくなからず感じる。作者は天上からわたしが像の背面にまわってながめていたのを興味深げにながめているかも。
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