豊饒と動乱の碧波~『ペリクレスの世紀』
見渡すかぎり地平線の彼方まで広がる青碧の水面。点々と浮かぶ美しい丘陵の島々。
古代ギリシア世界のミレトスで、人類史に刻まれる一群の重大な思想が生まれたことは、この地中海の雄大な自然の風景と無関係なことではない。
哲学の祖タレスが「万物の根源は水である」と言い、その弟子アナクシマンドロスが世界の構成原理として「限りのないもの(ト・アペイロン)」を名指すとき、その眼前には無窮の大海が横たわっていたはずである。

あるいは、彼らの流れを受け継ぐヘラクレイトスや原始の科学者デモクリトスらが受胎した、万物が流転しながら分離結合を繰り返す世界のビジョンもまた、こうした原風景に多くを負っている。
しかし、そうした輝かしきミレトスがアケメネス朝ペルシアの侵攻を受けたのち抵抗虚しく徹底的に破壊されて以降、思想史における檜舞台はアテナイへと移っていく。
五世紀中葉からその後の四半世紀にかけて、多くの才人が集った大都市アテナイにおいて、哲学や科学だけでなく、建築、芸術、悲劇、文学などの文化が一斉に芽吹き、花開いた。のちの世界にいずれの分野においても大きな影響を与えるこの時代は、「ペリクレスの世紀」と呼ばれる。
本書『ペリクレスの世紀』は、文化史におけるこの一つの極が、どのような歴史的・政治的条件を土台として発酵されていったのか、そしてそれが実のところどのようにして言い表される時代だったのかを素描する試みである。
このペリクレスというのは、かの時代にアテナイを治めた首長の名前であり、民主制を完成させた史上屈指の為政者と紹介されることが多い。実際に、開放的で調和的な政策を多く施行し、アテナイ市民の尊敬を集めた傑物であった。ペリクレスの死後、アテナイは不安定になり、周辺都市との戦争ののちに没落してしまうほど、大きな影響力を持った政治家だった。
それでも、ルネサンスやらロマン主義やらと比肩する古代の黄金時代に、特定の政治家の名が冠されるのは異常な事態とも言える。著者は、幅広い歴史資料の読解を土台として、ペリクレスが時代の寵児となった次第を淡々と描出してゆく。
面白いのは、上記のような仰々しい背景にもかかわらず、本書におけるペリクレスがせいぜいが"優秀なコーディネーター"といった描かれ方に留まっている点である。歴史的考察は、むしろその時代の”前史”へと読者をいざない、そしてまた当時の一般大衆の目線から、どこか冷めたように文化の繁栄を捉え返す。
あまねく世界を照らすプラトンの太陽のように、強烈な理念の光に貫かれた時代であった。荘厳で調和的なドリス式建築様式、誕生と同時に高度に完成された悲劇、肉体の甘美さと完全性を讃えるギリシア彫刻。思想は栄え、歴史上他に類を見ない規模の直接民主制と洗練された慣例法の体系も、それらすべてを支えた。
しかし同時に、見過ごしてはならない点として本書が繰り返し強調する多くの矛盾もあった。相次ぐ内乱や覇権争いがあり、疫病に乗じた犯罪の数々があった。徳の哲学が声高に説かれるアゴラのすぐそばに、絶対的な奴隷制が息を潜めている。百花繚乱の様相を見せる文化芸術の数々を横目に、”普通の”大衆の仄暗い日常生活があった。多くの矛盾に引き裂かれた時代にあって、ペリクレスはそれらの中間に置かれ、どちらかというと大衆の目線に立ってアテナイを見渡していたようである。

図:ペリクレス像
前衛的な思想や芸術を保護しながらも自らそれに染まることなく、かといってポピュリズムに堕して民衆に迎合するでもなく、”普通の人”として様々な対話を重ねながら淡々と必要な執政にあたる盟主の姿が、本書を通して浮かび上がってくる。実際ペリクレスは、プラトンが『国家』で克明に描いた哲人皇帝ー例えばローマのマルクス・アウレリウスーのようの政治家像からはかけ離れているし、強烈なリーダーシップを発揮した英雄ではない。政治理論的にも後世に与えた影響は大きくなく、簡単な演説録が残っている以外に本人の言による民主政治論や政治思想なども全然ない。
だがそうであってこそ、このような首長にして「ペリクレスの時代」とまで呼ばれる名声を築き上げた人物への興味はいや増すばかりである。本書を通して、古代の揺籃期のいち政治家を中心に回りゆく稀有な文化の成熟の場が、読者の手元に立ち上がっていく。
紀元前430年、アテナイ域内で発生した伝染病が人口の3分の1近くを死へと追いやった。息子を亡くした哀しみの最中、自身も病に倒れたペリクレスの目には、かつて隆盛を極めた大都市が荒廃しさり、鈍い鉛色の空気で幾重にも覆われているように映っただろう。
最期の刻、その目のさらに奥深くに、かつてパルテノン神殿の傍らから望んだようなどこまでも広がるエーゲ海の碧波が、理念の瞬きの如く映っていたかどうかは、定かではない。
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