【映画評】新作公開直前!「アバター」を宮崎駿アニメの3DCG実写映画化とあえて豪語するアバター批評
ようやくキャメロンのライフワークである「アバター」の3作目が世に出ようとしている。2作目は家族の物語として一定の評価を得たとは思うが、やはり1作目の衝撃は今なお忘れられない。キャメロンが当時満を持して作った「アバター」はその映像や最新技術に目がいってしまったのか、ストーリーのチープさを酷評する者が多かったが、結論から言うとこの映画のストーリーの出自は宮崎駿アニメの「風の谷のナウシカ」である、と勝手に断定させてもらう。ハリウッド的にはケビン・コスナーの「ダンス・オブ・ウルブス」と極似であったと批評したくもなるだろうが、それであれば他にももっとあるんじゃないかしらといぶかしくも思うのだ。もともと日本のアニメや漫画に造詣の深いキャメロンだからこそ、出自をナウシカとしたとしても別に不思議ではない。そういえば木城ゆきとの漫画「銃夢」を28年越しに「アリータ:バトル・エンジェル」として世に出したことは有名な話で、それぐらい日本漫画やアニメとの親和性は強い。

まあそれはいいとして、キャメロンは別の方向からナウシカの実写化(まあCGアニメという捉え方もあるが)に成功してしまった。さらには映像的にラピュタやもののけ姫まで持ち出して宮崎駿アニメのフリークを大いに喜ばしてくれている。まあそうしたぼくの心をくすぐってくれるシーンの数々に個人的にはとてもよかったのだが、一般的にも評価されてよい作品だと思う。 アバターのテーマはシンクロニシティ=同期だ。アバターとの同期もそうだが、ナヴィ族は自分の髪の毛の先から出てくる、まるで王蟲の触覚のようにしか見えないもの(フィーラーというらしい)で、馬や怪鳥や植物と同期する。

そして、シガニー・ウィーバー扮するグレース博士がいうように、動植物を含めたパンドラという星全体が意識を同期できるネットワークを持っているのだ。実にここで描かれている世界観は、吉本隆明の「アフリカ的段階」や中沢新一の「対称性人類学」に等しい。西欧的には南北戦争やインディアンやアフリカのお話に結びつけたがるだろうが、それも拡大解釈すれば森羅万象の東洋的宗教観に結びついてしまう。人間がまだ動物や植物と密にコミュニケーションを行い、お互いがいつでも入れ替わることが可能だった世界は、神話の多くが語っている。それはヘーゲルがいうところの野蛮ではなく、異世界の文化である。そして、それは現代の文化と同等に価値のあるものである。


ところで、アバターの宮崎駿アニメ的シーンはさきほどの触覚だけではない。ラピュタを思わせる浮かんだ岩(これは飛行石ではなく磁力によるのだけど)や、人間たちをなぎ倒すように襲ってくる猛獣の群れはもののけ姫のいのししの大群を想起する。怪鳥に乗っている姿に千と千尋を想起したり、輸送機を襲撃するシーンでナウシカを想起することもできる。さらには、ナヴィ族が住む森の造形はまんまもののけ姫に出てくる森そっくりだし、魂の木の造形はもののけ姫のシシ神のいた森を想起してしまう。


とまあ、世界観が似通ってるからなんでもそんな風に見えてしまうのだけれど、そういう風に見えるからぼく的にはとても楽しい作品に仕上がっていた。それはラッキーなことだと思う。

