3作目第6章 彼の優しさと懺悔と後悔
レースのカーテン越しに柔らかな朝の光が差し込み、咲はゆっくりと目を覚ました。
隣を見れば、真が静かに寝息を立てている。その横顔は昨夜の情熱的な表情とは一転して、驚くほど無防備だ。
(……あ、私、本当に真の家にいるんだ)
昨夜の出来事が鮮明に蘇る。真の真っ直ぐな告白、丁寧で長い愛撫、そして——あまりにもあっけなく終わってしまった初体験。気持ちは満たされたのに身体は不完全燃焼のままという微妙な感覚と、結局脱がなかったシャツの記憶が、朝の光の中でほんのりとした気まずさとなって咲の胸にのしかかった。
咲が身動きをしたその時、真のまぶたがうっすらと開いた。
「……咲、おはよう」
かすれ声で囁きながら、真は咲を引き寄せるように抱きしめた。だが次の瞬間、昨夜の結末を思い出したのか、真の体がぴくっと強張る。
「……あのさ、咲」
真はゆっくりと体を起こすと、ベッドの上に正座するように座り直した。ボサボサの寝癖がついた頭をかきながら、真剣な、だけどどこか情けないような顔で咲を見つめてくる。
「昨日のこと……本当にごめん。……格好悪すぎたよね」
「えっ……」
「久しぶりにこんなに好きになった人と付き合えて、絶対に満足させたいって思ってたのに、緊張と嬉しさで舞い上がっちゃって……。咲を放置する形になっちゃって、本当に申し訳ない」
40歳の成熟した大人の男性が、ベッドの上で心から申し訳なさそうに頭を下げている。
咲は拍子抜けすると同時に、胸の奥がキュッと温かくなった。プライドを捨てて素直に謝り、自分の不甲斐なさを恥じているその姿に、彼がいかに自分を大切に思ってくれていたかが痛いほど伝わってきたからだ。
「……ふふ、なに正座なんてしてるの。やめてよ」
咲が思わずクスッと笑ってしまうと、真は驚いたように顔を上げた。
「だって、咲に嫌われたかと思って……」
「嫌いになんてならないよ。真が私のこと、それだけ大切にしてくれようとしてたの、ちゃんと伝わってたもん。」
「咲……」
真はホッとしたように大きな溜息をつくと、咲の体を優しく包み込むように抱きしめた。咲の肩口に顔をうずめながら、低い声で囁く。
「……次は、絶対に咲を満足させるから。もっと時間をかけて、ゆっくり慣れていこう? 俺、咲とのこれからをすごく大切にしたいんだ」
耳元に届く真の誠実な言葉。完璧すぎない隙があるところも、それを誤魔化さずに向き合ってくれるところも、咲にとっては愛おしくてたまらなかった。昨夜感じていた小さな違和感や気まずさは、朝の温かい空気とともに綺麗に溶けていく。
「……うん。楽しみにしてるね」
咲が真の背中に手を回してぎゅっと抱き返すと、真は心底愛おしそうに咲の頬にキスをした。
「よし、美味しい朝ご飯作るから、咲はまだベッドでゴロゴロしてていいよ。何食べたい?」
「料理出来るの~?(笑)でも、真が作ってくれるならなんでもいい」
シャツの袖をまくりながらキッチンへ向かう真の背中を眺めながら、咲は「この人と出会えて良かった」と、心の底から満たされた気持ちで噛み締めていた。
そして2回目のデートの日。
真の提案で静かな個室のある和食店だった。
落ち着いた雰囲気の店内、美味しいお酒と旬の料理。前回の「消化不良」な夜のことなんてまるでなかったかのように、真は終始穏やかで、咲を気遣う優しさに溢れていた。
(やっぱり、真と一緒にいると安心するな……)
そう思いながらグラスを傾けていた咲だったが、ふと真の様子がどこか緊張していることに気づいた。お酒を口にするペースが少し早く、視線が泳いでいる。
「……咲」
意を決したように、真が咲の目を見つめた。
「実は……今日、咲に言わなきゃいけないことがあるんだ。幻滅されるかもしれないし、嫌われるかもしれない。でも、このまま嘘をついて付き合うのは嫌だから」
真の真剣すぎる表情に、咲の背筋が少し伸びる。
「実は……俺、腕に結構なタトゥーが入ってるんだ」
「え……?」
「この前の夜、シャツを脱がなかったのはそれが理由。嫌われるのが怖くて、言い出せなかった。身体を鍛えてないからなんて嘘ついて、本当にごめん」
真は申し訳なさそうに視線を落とした。
その言葉を聞いた瞬間、咲の胸のつかえがすーっと下りていくのが分かった。あの夜の「脱がなかった理由」が分かって、変な勘違いじゃなかったことに心底ほっとしたのだ。
咲はクスッと笑い声を漏らした。
「なんだ、そんなこと! ビックリさせないでよ〜」
「えっ……咲?」
「若気の至りってやつでしょ?確かに若い頃流行ったよね。 ファッションみたいなものだし、私は全然気にしないよ? 真のそういう一面も含めて真なんだから」
真の顔に、ぱっと安堵の色が浮かぶ。
「よかった……本当に、嫌われたかと思って……」
「大丈夫だってば。」
咲は悪戯っぽく微笑みながら、冗談めかして付け加えた。
「まあでも、もし背中にガッツリ和彫りの刺青が入ってたら、流石に『えっ!?』ってなるかもだけど(笑)」
「…………」
場を和ませようとした咲の軽やかな一言。
しかし、その瞬間、真の口がピタリと塞がった。
安堵に包まれていたはずの個室の空気が、凍りついたように重く沈む。真の顔から完全に血の気が引き、固まったまま咲を見つめている。
「……真……?」
咲の問いかけに、真は喉を鳴らし、しぼり出すような低い声で呟いた。
「……背中、ガッツリ入ってるんだ」
「……え?」
「……腕だけじゃない。背中全面に、和彫りが入ってる」
冗談だと言ってほしくて真の顔を覗き込んだが、彼の瞳はこれ以上ないほど真剣で、そして苦しそうだった。
「若い頃……やんちゃなんて綺麗な言葉じゃ言えないくらい、荒れてた時期があって。
そういう世界に片足突っ込んでたんだ……
だから、その時に。」
真の口から語られる、今まで想像もしなかった過去。
真が40歳まで独身だった理由。落ち着いた大人の雰囲気に隠されていた、本物の影。
「でも!今はもう完全に足を洗って、今の営業の仕事で一からやり直してる。
消えない過去だし……消せない刺青だ」
真は小さく拳を握りしめ、静かに首を振った。
「嫌だって言ったよね。……やっぱり、受け入れられないよね」
咲は言葉を失った。目の前にいるのは、自分に誰よりも優しく接してくれた、大好きな「真」。でも彼が背負っているのは、自分が笑い飛ばした「ちょっと嫌かも」を遥かに超える、重く生々しい過去だった。
個室の中に、静かなジャズの音色だけが虚しく響いていた。
続く
