3作目-第1章 喧騒を抜けた先に、君がいた
クラブの重低音が空気を震わせ、街灯の光がネオンサインと混ざり合って、濡れたアスファルトに万華鏡のような模様を描いている。週末の夜。37歳の咲は、友人との久しぶりの夕食を終え、心地よい満腹感と、少しのほろ酔いに包まれながら、駅へ向かって歩いていた。
けれど、通りを進むにつれて、その気分は徐々に削がれていく。
「お姉さんたち、この後どう?」「どこ行くの?飲みに行かない?」
絶え間なくかけられる、軽い声。どうやら今日は、このエリアで大規模な街コンが開催されているらしい。首から名札のようなストラップを下げた男性たちが、次から次へと声をかけてくる。
(……はぁ。もう、ホントに疲れるんだけど)
咲は目線を少し下げ、聞こえないふりをして歩調を早めた。30代後半ともなれば、こういった手当たり次第の言葉にときめくほどの純粋さはとっくに摩耗している。求めているのは、こういう安っぽい刺激ではない。もっと確かな、地に足の着いた温もりだ。
その時、人混みの向こうからスラリと背の高い人影が近づいてきた。またか、と咲が完全にスルーしようと体をかわしかけた瞬間――
そっと、けれど確かな力で、手首を包み込まれた。
「……っ!?」
驚いて足を止め、振り向く。そこにいたのは、少し息を切らせた、大人の男性だった。仕立ての良いジャケットに、少し乱れた髪。どこか落ち着いた雰囲気を纏っている。
「ごめん。……あの、めっちゃタイプで、スルー出来なかった」
直球すぎる言葉に、咲は一瞬言葉を失った。
普通なら「馴々しい」「強引だ」と不快感を覚えるはずだった。しかし、彼のまっすぐな目線と、ほんのり頬を赤くした真剣な表情に、不思議と嫌な気はしなかった。それどころか、整った目鼻立ちと大人っぽい佇まいは、まさに咲の「割と好きな顔」そのものだった。
その直球すぎる言葉に、三十年近く生きてきて培った、男を見極める冷静なフィルターが、一瞬にして弾け飛んだ。
「……あの、腕」
「あ、ごめん! 逃げられちゃうかと思って、つい」
慌てて手を離し、頭をかく彼の名は「真(まこと)」、40歳。話を聞けば、彼もまた友人に連れてこられた街コンの喧騒に馴染めず、抜け出してきたところだったという。
「自分も友人に連れてこられたけれど、若さの熱気に馴染めなくて。抜け出して、静かな店を探そうとしていたところに、君を見つけたんだ」
照れくさそうに笑いながら彼は名刺を渡してきた。手書きで書かれた電話番号。その小さな紙切れが、これから始まる何かを予感させた。
そんな真の横顔を見つめながら、咲の胸の奥で、久しく忘れていた小さな鼓動が跳ねた。
隣を見ると、咲の友人も、いつの間にか真の連れである同年代の男性と意気投合して楽しそうに話している。
「もしよかったら……静かな店で、一杯だけ飲みませんか?」
大人の街の喧騒の中、差し出されたその手。その手から伝わる温もりが、彼女の心の迷いを消し去った。
咲は、その手をとるのに、それほど時間を必要としなかった。
