最終章:強がりの終着駅、そして新しい私
ベランダの窓を開けて戻ってきた彼は、何事もなかったかのようにスマホをポケットに放り込んだ。冷え切った部屋の中で、私は彼を真っ直ぐに見つめた。
「……ちゃんと言った?」
「何を?」
「その女の人に、あなたに気はないよって。ちゃんと言ってくれたの?」
私のトーンがいつもと違うことに気づいたのか、彼は少し眉を下げて、困ったような笑みを浮かべた。
「言ったよ。でも、向こうが『彼女がいないならいいじゃん』って言ってきてさ……」
その言葉が、私の耳の奥でゴトゴトと不気味な音を立てて転がった。
「え……? 私って、あなたの彼女じゃなかったの?」
私がそう問いかけると、彼は一瞬だけきょとんとした顔をした後、
「え? 俺らって付き合ってるの?」
「……え? 付き合ってないの?」
頭を殴られたような衝撃だった。毎日のマメなLINEは? 夜中に駆けつけてくれたのは? 激しく求め合って、朝には甘えてきたあの時間は何だったの?
混乱する私の頭の中に、突如として、彼と出会ったばかりの頃の「私自身の声」が鮮烈に蘇ってきた。
『私さ、結婚一度失敗してるから、もういろいろ面倒くさくて。重い関係とかも嫌だし、お互い縛られない、気軽な恋愛がしたいんだよね』
そうだ、私が言ったのだ。
蓮に「ご当地彼女」扱いされてズタズタになったプライドを守るため。もう二度と、男に期待して傷つきたくないからと、予防線を張るために放った強がりの言葉。
まさか、自分を守るためについた言葉が、今、こんな最悪な形で自分を突き刺す刃になって返ってくるなんて。彼は私のその言葉を都合よく利用し、「付き合わなくていい、都合のいい女」として私をこの鳥籠に閉じ込め、そのくせ自分は他の女と繋がって、私の行動だけを異常に束縛していたのだ。
悲しさと情けなさで、視界が涙で歪みそうになる。
でも、私はぐっと拳を握りしめ、溢れそうになる涙を瞼の裏に押し返した。
(……舐めるんじゃないわよ)
ネトゲのサクラに騙され、しごできイケメンのご当地マイルにされ、今度は甘えん坊の束縛男のセフレ。
たくさん打席に立って、その全部で泥水を飲まされてきた。だけど、今の私は、あの頃のただ泣き寝入りしていた私とは違う。傷つくたびに、私の「地雷センサー」と「這い上がる覚悟」は、確実にアップデートされてきたのだ。
私は、張り付いた笑顔ではなく、自分の本当の心の声で、まっすぐに彼を睨みつけた。
「そう。付き合ってないんだ。じゃあ、ちょうどよかった」
「え……?」
「あなたとは今日で終わり。今すぐ私の家から出て行って」
突然の豹変に、彼の顔が驚きで強張る。けれど、彼は自分のプライドを守るように、どこか余裕ぶった薄笑いを浮かべて言ったのだ。
「……え、じゃあ何? 咲さんは俺と付き合いたいの?」
どこまでも上から目線の、呆れた勘違い。自分は愛されていて、私が嫉妬で怒っているとでも思っているのだろうか。
そのあまりの愚かさに、私の中で冷えていた感情が、一瞬で乾いたあきらめへと変わった。
「ううん。あなたとは、絶対に付き合いたくない」
きっぱりと言い放つと、彼の顔から余裕が消えた。私は彼の背中を玄関へと押し出そうとした。
「バイバイ」
その瞬間──。
「待って、ごめん……!」
強い力で腕を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められた。彼の纏う香りと体温が私を包み込む。耳元で囁く焦ったような声、そして、封じ込められるような強いキス。
いつもなら、この甘い腕の中で私の心は簡単に溶かされ、怒りも不信感も全部うやむやにされてきた。彼は分かっているのだ。こうすれば私が絆され、自分を許してしまうことを。
一瞬、思考が白く染まりかけた。
(……またそうやって、私の体を道具みたいに使って誤魔化すんだ)
悔しさと、今まで必死に耐えてきた悲しみが限界を超え、咲の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……あ」
ポロポロと泣く私の顔を見て、彼はハッとしたように顔を歪めた。そして、申し訳なさそうに、愛おしむような優しい手つきで、指先で私の涙をそっと拭き取った。
「……咲さんと、離れたくない」
すがるような目で見つめられ、申し訳なさそうに指先で涙を拭い取られる。
一瞬、心が激しく揺れた。このまま彼の温もりに甘えてしまえば楽になれるかもしれない、という誘惑が頭をかすめる。
そんな私の迷っている隙を見逃さず、彼は再び私の唇を塞いできた。
深くて、甘くて、逃がさないためのキス。私の感情を麻痺させようとするかのように重ねられる唇に、頭がクラクラする。
彼がゆっくりと唇を離し、私の目を見つめながら低く囁いた。
「……これが、本当に最後?」
「……え?」
「最後なら、したい」
その瞬間、私の頭の中で鳴り響いていた迷いの鈴の音が、完全に静まり返った。
(……最後なら、したい?)
ハッとして彼を見た。
「離れたくない」と涙を拭って見せたのも、私の気持ちを引き留めたいからではなく、ただ「今日、最後の情事を済ませたいから」だったのだ。土壇場になっても、彼は私の傷ついた心なんて一ミリも考えていない。最後の最後まで、自分の欲求を満たすことしか頭にないのだ。
愛おしさも、切なさも、すべてが一瞬で凍りつき、透明な冷意へと変わっていった。
「……ふざけないで」
「え?」
私は冷え切った手で、彼の胸を力いっぱい突き放した。不意を突かれた彼は、よろめいて玄関の靴脱ぎ場へと後退する。
「本当にどこまでも自分のことばっかりなんだね。気軽な関係と、人を舐めた関係は違うの。時間を守れない人とも、自分を棚に上げて人を束縛する人とも、私を体だけで都合よく繋ぎ止めようとする人とも──私は私の人生を一ミリも共にするつもりはないから」
息を呑み、呆然と立ち尽くす彼をそれ以上見つめることもせず、私はドアを押し閉めた。
バンッ、と重い音が響き、カチャリと鍵をかける。
静まり返った玄関で、私はドアに背中を預けたまま、その場に崩れ落ちた。
「……っ」
静寂の中、堰を切ったように涙がポロポロと溢れ出してきた。
冷えた手でそれを必死に拭いながら、すぐにスマホを取り出す。
指先が固く震えていた。
トーク画面を開けば、画面を埋め尽くすほどの大量のLINE。
『今から行くね』
『咲さん、大丈夫?』
『早く会いたいな』
画面を上へ、上へと遡る。
都合のいい男だったかもしれない。最後は体目的の最低な捨て台詞を吐いた男だったかもしれない。けれど、落ち込んでいた夜に駆けつけてくれたあの時間も、寝ぼけた顔で甘えて抱きしめてくれたあの温もりも、全部が全部、嘘だったとは思いたくなかった。
あの時の彼の優しさに、私は確かに救われていたのだから。
(……なんでかな。私の好きになる人は、みんないつもズルくて、ダメな男ばかり)
画面が涙で滲んで歪む。
だけど、過去のトークを最後まで遡りきったとき、私は大きく息を吐き出し、震える指で「ブロック」のボタンを強く押し込んだ。
優しかった時間を否定はしない。彼を好きになった自分の気持ちも嘘にはしない。
だけど、思い出に縋って自分を安売りするような恋は、もう二度としない。
窓を開けると、夜風が濡れた頬を静かに撫でていった。
痛みも、後悔も、全部抱えて生きていく。ダメ男ばかりに愛されてきた私だけど、次に選ぶのは、ちゃんと自分を一番に愛せる私自身だ。
夜空を見上げる私の瞳からは、もう涙は落ちていなかった。
(完)
