〓メモ.07 〝1,17混沌がはじまった5〟
ここでお詫びを申し上げなくてはいけません。コメントを頂いて気が付きました。少し回想にのめり込み過ぎて、ついつい何やら悲劇的なストーリーに手引きしてしまったようです。12年のタイムラグがあると言え、いささか恥ずかしい限りです。悲惨さや過酷さだけを書き綴る気は毛頭ありません。それらを教訓にこうしよう、ああしようというメッセージを伝えるつもりでもありません。もう少し、我慢してこれを読み進めてもらえればこのブログで描きたいものの全体像を理解していただけると思います。
今、手元に当時のごく簡略に走り書きしたメモが残っています。しかし、1月17日に体験した記憶は、メモに頼らなくても鮮明に焼き付けたように脳裏に張り付いていますが、2日以降はダメです。メモを見ないとすぐには思い出せません。そのメモも翌月の6日、地震から21日目で途切れています。ここで途切れたと言うことは、何らかの部分で私の震災は21日間で終わったとも言えるようです。これについても最後まで通読いただければ、それが何であったかはお判りいただけると思います。
あまり見る気にはなりませんが、この時期になるとメディアにおいて「取り残された復興‥‥ 生活や暮らし向きが取り戻せない‥‥ 心の痛手から未だ立ち直れない‥‥」この手の話から、「この経験をこれからの防災社会にどう活かすのか?」という類いものまで、まるでお決まりの歳時記のように特集番組が組まれます。
あれだけの災害でしたから、多くの方々が言い尽くせない辛い試練を背負い、それを乗り切られた方、振り切った人、未だ引き摺って乗り越えることが出来ない方と、今日に到る無数の軌跡があったろうと思います。その個別に言及するつもりはありません。ただ、絵面を先に決めて、それに似合う事実を探すマスコミには、とうてい拾い上げることのなかった日常的な傷跡、いわば個人の心象に刻まれた〝キレツ〟や無数に積み重なっていく〝ガレキ〟などが、そのまま〝被災地〟と呼ばれたエリアに捨ておかれて埋もれていこうとしている。
私は、何をこれから〝復興〟していくのだろうか?
この回想は、その再確認のために始まったものだと思います。願わくば、そこに辿り着くことができるよう今しばらく踏ん張ってみたいものです。
【1995.1.17/震災当日5】
か細い自転車の灯を頼りに、今度は西へ西へとペダルを漕ぎはじめました。灯を失った街ほど無気味なものはありません。途中、二か所ほど避難所の小学校へ立ち寄りましたが、このあたりの知人たちのめぼしい情報はありませんでした。
夜10時を過ぎて、長田の辺りに戻ってきました。火の勢いは収まることなく、ますます西へ火炎の幅を広げ、真っ黒な夜空をごうごうと焦がしながら人家をなめつくしています。不思議なものです。あの横倒しのビルを見たときもそうですが、目の前の情景に現実感が伴いません。逃げまどう人たちや、走り回る消火隊員たちが居たならば、確かにここが災害現場そのものだという実感に押し包まれたのでしょうが、この時においては、大きなスクリーンが映し出す幻想的な風景に誘われるようにさ迷っているようでした。
その無人の火災現場で方向を失いかけました。ハッと気が付けば左からも右からも炎に追われて逃げ場を失いつつありました。橋に出くわし、その川に救われました。火炎が途切れた隙に、必死にペダルを踏んで北へ。大きく火災現場を迂回したあと西へ。
長田から須磨の大火災は、翌日も燃え続けていました。まさしくこれが〝劫火〟なのでしょう。皮肉なことに燃えさかる情景には、災禍の渦中であることを忘れさせるような〝美しさ〟があります。そんな放心と諦観で眺める映像イメージは延々と一日中つづきました。そして、思い至っても思い尽くせない手酷い現実が、私たちをとことん打ちのめすのは、鎮火した焼け跡の荒涼とした情景を目にしてからになります。
垂水へたどり着いたのは午前1時、数知れない試練、底知れない混乱と混沌でこのエリアを覆い尽くした1.17は、もう昨日のこととなっていました。

そして、私というものも端的に表しているように感じる。
(1995年1月 撮影/K・U)

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