ミニマルセルフとナラティヴセルフ-「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集②
ショーン・ギャラガーというアメリカの現象学者が使い始めた用語のようです。ただし、主著署は日本語に翻訳されておらず(共著書は出版されている)、語学が大嫌いな私は、実のところ全く未読です。個人的には日本の現象学者である田中彰吾さんの著作から入ったのでした…。
なので、「違うかも」はたくさんあるのですが…。ともあれ。
ミニマルセルフとは、「記憶のような時間的広がりがなくても残存するであろう最小の自己」(田中彰吾ほか著「自己の科学は可能か——心身脳問題として考える」P6)です。その主要な要素は、自己所有感や主体感、視点の感覚にあると言われています。
つまり、このからだは自分のものであるという感覚、このからだは自分の意志で動くという感覚、このからだを起点として世界を見ることができるという感覚です。
ひどく当り前のことのように思えるかもしれません。しかしそれ自体も「可塑的」…自明のことではなく、錯覚するように変わってしまうものだと言われれば、意外に思う方もおられるのではないでしょうか。
それを示す有名な実験が、「ラバーハンド実験」とよばれるものです。
参加者は目の前のテーブルに座り、自分の手は仕切りで隠されます。そしてゴムの手を参加者の手と同じ位置に置きます。実験者は両方の手を同期してブラシでなでます。これを数分間続けると、多くの参加者がゴムの手を自分の手のように感じ始めたといいます。つまりそれは、「これが自分のからだである」という感覚が錯覚によって変容してしまったということだといわれています。
掘り下げすぎるとまた難しい話になってしまいそうですが、この錯覚は脳画像研究でも確認できると言います。このことも重要な点です。
ここまでの話でミニマルセルフにとって重要な二つの点を記載できた、ということになりそうです。ひとつは自明であり、したがって不動のものであるようにも思われる「ミニマルセルフ」も変容するものであるということです。
そしてもう一つは、それを脳科学などの自然科学的研究で実証することができるということです。ミニマルセルフとナラティヴセルフの区分は、あくまで概念操作にすぎません。これまでアイデンティティをめぐる研究は、どうしても人文・社会科学的なものにとどまり、脳科学をはじめとする自然科学的な研究とは相性の悪いものと考えられていました。この可能性を開いたという点が、ミニマルセルフ概念の画期的なところと言えるでしょう。
それに対して、ナラティヴセルフは相互作用のなかで保持される、より高次の自己意識ということができるでしょう。それは自己の物語、信念、価値観などを含み、したがって言葉で意識される「わたし」という意識そのものだと言えます。
つまりナラティヴセルフは、伝統的に人文・社会科学で扱われてきたアイデンティティ観そのものと言っていいと思います。様々な言説(それが言語を解したものであるかどうかにはかかわらず)によって「わたし」という意識は形成されます。それらによる形成の状態ないし生成の様子を検討するとき、ナラティヴセルフとして言及されることになります。
なお、このような「言説」によって形成された「わたし」を「ナラティブ」として語ることにも含意があると言えます。
ナラティヴとは、語る行為であり、同時に語られた内容、すなわち物語そのものをさします。それはさらに、それを聞き取り、物語として需要・共有する他者が存在することを意味します。少なくともそれが本人にとって想定されている状態ではあることでしょう。これらを含めて、筆者はナラティヴセルフを「言及される可能性」という視点で記述しています。
前述したとおり、ミニマルセルフとナラティヴセルフは論理上の仮定であり、操作された概念にほかなりません。「身体」に境界線はないのです。実際の「行動」は、常にミニマルであり、ナラティヴでもある「身体」の働きによって形成されます。
また、ナラティヴであることと、狭義の言語のはたらきもまた、必ずしも関係ありません。少なくとも筆者は「身体における記号のはたらき」という観点には立ちません。
本文中でスポーツや音楽、職人の手仕事を例に記述していています。筆者はこれを、必ずしも記号的ではない相互作用(場合によってはモノと人との相互作用)として捉えています。ルールブックや楽譜など、それらを表す記号はあるとも言えますが、実践において、それはせいぜい参照の対象といった程度の意味しか持ちません。楽譜を演奏することはできても、実際の演奏を楽譜に余さず写し取ることは不可能なのです。
しかしスポーツの一場面や音楽の演奏は、しばしば物語的意味をもって(あるいは語るという行為に相似して)わたしたちの前に立ち現れます。
記号に還元されない物語。ミニマルセルフに統合することができない身体の運動。職人と材料との関係もこれと同じですね。身体間で共有される物語ではなく、身体とモノとの間で紡がれる物語。その物語性をもって、私はこれらをナラティヴセルフとして理解しています。
これらの視点を含め、ひとつの「わたし」という現象を探るための論理的構築物として、ミニマルセルフとナラティヴセルフをご理解いただければ幸いです。
