身体と身体図式 - 「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集1
フランスの哲学者(現象学)であるメルロ=ポンティの概念です。
ものすごく雑に言えば、身体とは「人間」のことです。
西洋の哲学の伝統では、長らく「<世界>に実在するのは精神か物体か」という問題が取り沙汰されてきました(心身二元論)。メルロ=ポンティは、そんな問いに意味があるのか?と言いたかったのでしょう。先行する世代の現象学者であったハイデッカーの考え方を取り入れて、<世界ー内ー存在>、すなわち主観と客観の二元論を超えた、世界との交差点としての「身体」を通して、世界を記述することを試みたのです。
身体論の最大の特性は「両義性」と呼ばれるものにあると思います。それは見るものであり、見られるものである。触れるものであり、触れられるものである。つまり、それは知覚するものであると同時に行動するものでもあるのです。
そしてこの両義性が身体の特性であるとすれば、精神と物質の区分には意味がなくなります。だって、意識するのが私であるのと同様に、意識されるものも私なのだから。
この意味で、知覚と行動の間の区分も廃されます。世界と身体の関りにおいて、知覚と行動は一体的に機能します。
身体が世界から何かしらの刺激を受けたとします。身体は反射として、この刺激に反応しようとします。ここでは、それが意識的・意図的なものであるかどうかは問題ではありません。サッカーの試合中に目の前にボールが転がってきたらトラップする、というのと同じように、何も考えることなく、文字通りからだの自然な反応として、刺激に対する適応が行われます。このときの刺激を感受することが「知覚」、それに適応することが「行動」ということになります。
また、身体の行動(刺激への反応)が、意識的・意図的なものであるかどうかは問題ではなく自然に反応する、という点が「前反省的」という表現になります。暗黙の裡に、何も考えずにわたしたちは行動することが可能です。この点も、意識が物体かという二元論を超越したところかもしれません。
さらに、この反応の可能性は多様に開かれています。それは、身体が過去に体験したことを参照する形で、身体の反応が実現されるからです。たとえ同じ人が同じことを知覚したとしても、これまでのどの体験を参照するか、時と場合によって違うわけです。
さらに、そこには、その人がどんな未来を予期しているか、という感覚も含まれています。身体は(当然ながら)現在という時間に存在しています。しかしそこで知覚されているものは、過去の体験によって規定され、同時に望ましい未来を(暗黙の裡に)選び取るという時間感覚だと言えるでしょう。
そのような多様な知覚=行動系の可能性を持つ身体の能力の体系を、「身体図式」と呼びます。それは、その人の世界とのかかわり方(姿勢やスタンス)を含み、したがって「前反省的」な行動の傾向も含んでいます。
そして未来への予期を含んだ現在が、常に過去となり、体験として蓄積されていく、ということは、身体図式が常に更新されていくということも意味します。本文では、それを「身体の可塑性」としてしつこく追及しています。
次を今回の最後の指摘にしましょうか…。身体は、このような身体図式を通して世界に関わっています。それは世界への「開かれ」であり、したがって世界との対話的な関係性です。それは、世界との実践的な関わりの中で意味を生成する主体としての姿であり、同時に個人の歴史性と状況性を体現する存在でもあります。これをメルロ=ポンティは「生きられた身体」と表現しました。
「生きられた身体」が現代の状況のなかで、どのように機能しているか。それが本文で追及していることの本質のひとつでもあるのです。
