裁判を傍聴して分かった「ニュースだけでは見えない事件の本当の姿」


こんにちは😊


23歳、看護師をしています。

普段は病院で働いていますが、私は以前から裁判に興味があって、休みの日などに裁判所へ行って傍聴することがあります。

そんな私が最近見て、ものすごく引き込まれたドラマがあります。

それが、

『外道の歌』

です。

最初に感想を言ってしまうと……

めちゃくちゃ面白かったです。

そして、めちゃくちゃ怖かったです。

「次、どうなるの?」

「この人たち、ここから何をするの?」

って、本当にドキドキしながら見ていました。

でも、私がこの作品にここまで引き込まれた理由は、ただ刺激が強かったからではないと思っています。

見ているうちに、これまで私が裁判所の傍聴席で見てきた光景を何度も思い出したからです。

そして、あることを考えました。

事件って、ニュースだけを見ていても、本当のところまでは分からない。

もちろん報道は大切です。

でも、一つの事件について何日も法廷で証言を聞いたり、被告人質問を聞いたり、判決理由を聞いたりしていると、

「ニュースで見た印象と全然違う……」

と思うことがあります。

今日は、『外道の歌』を見ながら私が考えたことを、実際に私が傍聴した売春防止法違反事件のことも交えながら書いてみたいと思います。

少し重い内容になります。

でも、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。



1.『外道の歌』を見て、裁判のことを思い出した


『外道の歌』を見ていて最初に感じたのは、

「現実にありそうで怖い」

ということでした。

むしろ事件をある程度知っている人なら、

「この設定、あの事件を思い出すな」

と感じる場面もあると思います。

もちろん、作品に登場するすべての事件について、

「これは実際の○○事件がモデルです」

と断定できるわけではありません。

でも、現実に日本で起きてきた凶悪事件や社会問題を知っていると、どうしても重ねてしまう。

だから余計に怖いんです。

完全なファンタジーだったら、

「ドラマだから」

と少し距離を置いて見ることができます。

でも、

「似たようなこと、本当に現実で起きているよね……」

と思った瞬間、一気に作品との距離が近くなります。

私はそこに『外道の歌』の怖さを感じました。

そして、もう一つ。

『外道の歌』には、本当に腹が立つ加害者が出てきます。

見ている側としては、

「こんな人、許せない」

と思います。

そして、カモやトラによる制裁に感情移入してしまう瞬間もあります。

でも私は見ながら、少し違うことも考えていました。

「この人は最初からこうだったのかな?」

ということです。

もちろん犯罪をした責任は、その人にあります。

そこを環境や生い立ちだけで免責するつもりはありません。

でも裁判を傍聴していると、

「悪い人が、悪いことをしました」

だけでは説明できない事件に出会います。

人間関係。

上下関係。

お金。

孤立。

恐怖。

依存。

家庭環境。

職場環境。

そして、

「もう後戻りできない」

と思ってしまう心理。

いろいろなものが絡み合った結果として、事件が起きていることがあります。

私は以前、売春防止法違反に問われた女性被告人の裁判を傍聴しました。

この裁判が、『外道の歌』を見ながら何度も頭に浮かびました。



2.私が傍聴した「売春防止法違反事件」

その事件では、ある飲食店で働いていた20代の女性が被害者とされていました。

裁判で語られた内容によれば、

女性は店の売上が少ないことを理由に責められ、

暴力を受け、

さらに不特定多数の男性を相手に売春をさせられていたとされていました。

しかも、それだけではありません。

女性がきちんと路上で客待ちをしているのか。

指示された場所にいるのか。

逃げていないのか。

そうした行動まで監視されていた。

そして、その監視に関わっていた人物の一人として裁かれていたのが、今回私が法廷で見た女性被告人でした。

売春による売上は、店の責任者側が管理していたとされていました。

つまり、

身体。
時間。
行動。
そして、お金。

その多くが自分の自由にならない状態だったということです。

私は傍聴席で聞きながら、

「これは単に『売春をしていた』という言葉だけでは全然違う」

と思いました。

重要なのは、

「売春していた」のではなく、「売春させられていた」と裁判で認定された構造です。

そこには大きな違いがあります。

そして、この裁判で、私はもう一つ強く覚えていることがあります。

法廷に入る前、私は勝手なイメージを持っていました。

「売春防止法違反」

「飲食店」

「女性従業員を監視」

「売春させる構造に関わった」

そんな言葉だけ聞くと、なんとなく、

怖そうな人。

近寄りがたい人。

いかにも犯罪の世界にいるような人。

そんな人物を想像してしまっていたんです。

でも、実際に法廷で見た女性被告人は違いました。

若い女性でした。

街ですれ違っても、

「この人は犯罪事件の被告人だ」

なんて絶対に分からないような、ごく普通の若い女性に見えました。

私はそこに、すごく戸惑いました。

目の前にいる普通に見える若い女性と、法廷で読み上げられている事件の内容が、頭の中でなかなか結びつかなかったんです。

でも、

現実には結びついている。

そこが怖かった。

犯罪って、

特別に怖い顔をした人だけが起こすものではない。

最初から「悪人」に見える人だけが関わるものでもない。

普通に生活していた人が、

ある日、被告人席に立つことがある。

このことを、私は法廷で強く感じました。



3.「逃げればよかった」では分からないこと

被害女性は成人でした。

だから外から事件だけを見ると、

「大人なんだから逃げられるでしょ」

と思う人もいるかもしれません。

「警察に行けばよかったじゃん」

「仕事を辞めればよかったじゃん」

「なんでそこにいたの?」

そう思う人もいるかもしれない。

でも私は、裁判を傍聴してから、その言葉を簡単には言えなくなりました。

なぜなら、

逃げなかったのではなく、逃げられなかったのではないか。

と思ったからです。

暴力を受ける。

行動を監視される。

お金を管理される。

毎日、相手の顔色を見る。

「逆らったら、また何かされるかもしれない」

と思う。

それが続いたら、人は本当に冷静な判断ができるのでしょうか。

外にいる私たちから見れば、

「逃げる」

という大きな選択肢があります。

でも、その環境の真ん中にいる本人には、

その選択肢そのものが見えなくなっていることがあります。

私が傍聴記録を書いたときに、一番残った考えがあります。

「助けを求めなかった」のではなく、助けを求める力を奪われていたのではないか。

そう考えなければ、被害者が置かれていた状況を理解できないのではないかと思いました。

この部分は、看護師として働いていて感じることとも少し重なります。

病院でも、

「なんでこんなになるまで病院に来なかったの?」

と思ってしまいそうになる患者さんがいます。

でも、話を聞いてみると事情があります。

仕事を休めなかった。

家族に心配をかけたくなかった。

お金が不安だった。

自分では大丈夫だと思っていた。

病院が怖かった。

誰にも相談できなかった。

表面的な行動だけ見れば、

「もっと早く来ればよかったのに」

で終わります。

でも、

その人がなぜそう行動したのか

まで見なければ、本当のところは分かりません。

私は裁判も少し似ていると思っています。

「なぜ逃げなかったの?」

ではなく、

「なぜ逃げられない状態になったの?」

と考える。

「なぜ相談しなかったの?」

ではなく、

「相談できなくなるほど、何が起きていたの?」

と考える。

同じ「なぜ」でも、意味が全然違います。

そして、この事件を単純に考えられなくした大きな理由がもう一つあります。

女性被告人自身も、

店の責任者の下で従属的な立場にあったとされていたことです。

つまり、

責任者。

その下に管理する立場の人。

さらに、その下に被害女性。

という上下関係があった。

被害女性は弱い立場に置かれていました。

でも女性被告人もまた、責任者に対しては強い立場ではなかった。

それなのに、

その女性被告人が、

さらに弱い立場の被害女性を監視する側へ回っていた。

私はここに、

上下関係のものすごく怖い部分

を感じました。

上から受けた圧力が、

下へ流れていく。

上には逆らえない。

だから、自分より下の人間に強く出る。

自分も支配されているのに、

別の誰かに対しては支配する側になる。

こういう構造です。

実際、私の傍聴記録でも、

「上からの圧力が下へ下へと流れていくこと」

そして、

「上に逆らえない人が、自分より弱い人に対して加害側へ回ってしまうこと」

について考えました。

もちろん、

だから女性被告人に責任がない、

という話ではありません。

被害女性を監視した事実。

売春させる構造に関わった事実。

被害者を助ける側ではなく、その仕組みを支える側にいた事実。

それは残ります。

でも同時に、

「では、なぜ彼女はそこまで感覚を麻痺させてしまったのだろう?」

という問いまで考えなければ、同じようなことを防げないと思ったんです。

「悪い人だった」

で終わらせる。

これは簡単です。

逆に、

「本人も従属的な立場だったんだから仕方ない」

というのも違います。

どちらか一方だけでは足りません。

責任は責任として考える。

でも同時に、

なぜ、その人が加害する側へ回ってしまったのかも考える。

この二つを同時に考える必要があると思っています。

私の傍聴記録でも、

悪い環境が人を加害側に押し流してしまう怖さと、

それでも個人の責任はなくならないこと、

この両方について書きました。

被告人をただ「悪人」として切り捨てても、この事件の構造は見えない。

でも、

「環境のせいだった」

として責任を軽く見てもいけない。

この間にあるものを考えるのが、裁判を傍聴する意味の一つなのかもしれません。



4.判決を聞いても、私の中で事件は終わらなかった

法廷はとても静かでした。

ドラマみたいに誰かが叫ぶわけでもありません。

裁判官が淡々と話します。

被告人が立っています。

弁護人が隣にいます。

傍聴席では、私たちが黙って聞いています。

でも、

そこで語られている内容は、とても重い。

この裁判でも、裁判官から被告人に刑が言い渡されました。

もちろん、その刑の重さについて、

「軽い」

と思う人もいるかもしれない。

「妥当」

と思う人もいるかもしれない。

私は、そこですぐに答えを出すことができませんでした。

それよりも頭の中に残ったのは、

なぜ、この事件は起きたのか。

でした。

なぜ被害女性は逃げられなかったのか。

なぜ助けを求められなかったのか。

なぜ女性被告人は加害する側へ回ったのか。

なぜ周囲は止められなかったのか。

そして、

なぜ買う側の人たちは、その女性がどういう背景でそこに立っているのかを考えなかったのか。

判決の数字より、その問いの方が私には強く残りました。

売春の事件では、

売春させた人。

管理した人。

監視した人。

こうした人物が注目されます。

当然だと思います。

被害者を支配し、監視し、売春をさせた側の責任は重大です。

でも私は、この裁判を傍聴して、

もう一つ考えました。

「買う人がいなかったら、この仕組みは利益になるの?」

ということです。

買う側がいる。

だからお金になる。

お金になる。

だから、その利益を得ようとする人が出てくる。

そして、そのために誰かを追い込む人が出てくる。

もちろん、法的な責任の話は別です。

でも社会全体の構造として見るなら、

需要を作っている側を完全に消して考えることはできない。

被害女性は、

誰かの欲望を満たすために存在しているわけではありません。

その女性がどういう状況でそこに立っているのか。

自分の意思なのか。

何かに追い込まれているのか。

外からは分からないことがあります。

だからこそ、

「お金を払ったんだから関係ない」

では終われない問題だと思いました。

そして裁判の最後。

裁判官から、

最後に何かありますか、

という趣旨の問いかけがありました。

女性被告人は、

被害者に対して申し訳なく思っている

という趣旨の言葉を述べました。

法廷は静かでした。

ドラマのように大泣きするわけでもない。

劇的な音楽が流れるわけでもない。

ただ、

静かな法廷の中に、その言葉がありました。

私はそれを聞いて複雑な気持ちになりました。

謝ることは大切だと思います。

自分がやったことを認めて、

被害を受けた人に申し訳ないと思う。

それは更生の第一歩なのかもしれません。

でも、

その一言で被害者が経験したことが消えるわけではありません。

暴力。

監視。

恐怖。

売春をさせられたこと。

お金を管理されたこと。

逃げることも難しくなっていた時間。

それは、

「申し訳ありません」

という言葉だけで元に戻るものではありません。

被害者がその謝罪をどう受け止めるのかは、

被害者本人にしか分かりません。

だから私は、

謝罪することと、

被害者が許すことは、

別の問題なのだと思いました。



5.『外道の歌』が突きつける「法律で裁いたあとに残るもの」

ここで『外道の歌』に戻ります。

この作品では、

法律では埋めきれない被害者の感情が描かれます。

裁判が終わった。

判決が出た。

加害者が刑務所へ行った。

あるいは社会に戻った。

法律上は、それで一つの区切りになります。

でも、

被害者の人生は?

遺族の人生は?

大切な人は戻ってくる?

奪われた時間は戻ってくる?

傷ついた心は判決の日に治る?

そんなことはありません。

私は実際の裁判を見ているからこそ、

『外道の歌』の世界にある、

「法律で裁いたあとに残るもの」

がものすごく気になりました。

もし、

自分の大切な家族が殺されたら。

傷つけられたら。

人生を壊されたら。

そして、

相手に刑が言い渡されたら。

私は、

「裁判が終わったので、これで終わりです」

と思えるのでしょうか。

正直、分かりません。

私は看護師として、

命に関わる現場を見ることがあります。

だからこそ、

人の命は数字ではない、

という感覚があります。

頭では、

私刑はダメ。

復讐はダメ。

法によって裁かなければいけない。

と分かっています。

でも、

感情はそんなに簡単なのでしょうか。

だから私は、

『外道の歌』で復讐を依頼する人たちを、

単純に、

「復讐なんてダメだよ」

とも言えませんでした。

もちろん現実で復讐を実行することを肯定するわけではありません。

でも、

復讐したいほど苦しいという感情が存在することまで否定していいのか。

そこは別だと思います。

この作品は、

その一番苦しい部分を描いているように感じました。

私は『外道の歌』を見ながら、何度も考えました。

カモとトラがやっていることは、

正義なのか。

復讐なのか。

犯罪なのか。

被害者救済なのか。

たぶん、

そんな簡単に名前をつけられるものではありません。

だから面白いんだと思います。

もし単純に、

悪者登場。

主人公が倒す。

はい、終わり。

だったら、ここまで考えなかったと思います。

でも、

『外道の歌』は、

「この加害者は許せない」

と思わせておいて、

そのあと私たちに、

「じゃあ、あなたはどこまでの制裁なら許せますか?」

と聞いてくるような作品です。

これは本当に難しい。



6.「見て見ぬふりは、絶対にしない」

そして今回、

『外道の歌』と売春防止法違反事件を改めて考えて、

看護師としても大切にしたいと思ったことがあります。

それは、

沈黙=大丈夫ではない

ということです。

これは病院でも同じです。

患者さんが、

「大丈夫です」

と言う。

でも表情を見ると大丈夫そうじゃない。

いつも話している人が、

急に何も話さなくなる。

痛いと言わない。

つらいと言わない。

でも、

それは本当に何もないのでしょうか。

裁判で感じたことも同じでした。

助けを求めないから、

助けがいらないのではない。

逃げないから、

そこにいたいのではない。

言わないから、

何も起きていないのではない。

言えなくなっている可能性がある。

ここを想像できる人でいたいと思います。

この売春防止法違反事件を傍聴して、

最終的に私の中に残った言葉があります。

それは、

「見て見ぬふりは、絶対にしない」

という言葉です。

事件には、

支配する人がいる。

支配される人がいる。

流される人がいる。

お金を払う人がいる。

黙っている人がいる。

そして、

見て見ぬふりをする人がいる。

もちろん、この事件は特殊です。

私たちの日常にそのまま当てはまるわけではありません。

でも、

人を支配する構造。

上下関係。

恐怖で何も言えなくなること。

周囲が慣れてしまうこと。

こうしたものは、

形を変えれば、いろいろな場所に存在する可能性があります。

だから私は、

誰かが何も言わないとき、

「何も言ってこないから大丈夫」

とは思いたくない。

誰かが逃げないとき、

「嫌なら逃げればいいじゃん」

とも言いたくない。

誰かが苦しんでいるとき、

「どうして言わないの?」ではなく、「言えないほど追い込まれてない?」

と考えられる人でいたい。

誰かが逃げられないとき、

「逃げればいい」ではなく、「逃げる力そのものを奪われていない?」

と考えたい。

そして、

自分の目の前で明らかにおかしいことが起きているなら、

見て見ぬふりをする側にはなりたくありません。

『外道の歌』は、

私にとって単なる復讐ドラマではありませんでした。

最初は、

「面白そう」

くらいの気持ちで見始めました。

そして実際、

めちゃくちゃ面白かったです。

緊張感がすごくて、

何度もドキドキしました。

でも見終わって残ったものは、

爽快感だけではありませんでした。

これまで傍聴してきた裁判。

法廷で見た被告人。

事件の後ろにあった人間関係。

被害者が置かれていた状況。

加害者がそこまで行ってしまった過程。

そして、

法律で裁かれたあとに残る被害者の感情。

それを思い出しました。

だから私は、

事件のニュースを見たときに、

「犯人最低」

という一言だけで終わりたくありません。

もちろん、

悪いことは悪い。

責任は取らなければいけない。

でも、

そこで思考を止めたら、

次の事件を防ぐために必要なものまで見えなくなってしまう気がします。

私が裁判を傍聴していて思うことがあります。

事件は、

逮捕された日に突然始まったわけではありません。

その前に、

長い時間があります。

人間関係があります。

小さな異変があります。

誰かが苦しんでいた時間があります。

誰かが気付いていたかもしれない瞬間があります。

そして、

判決が出たからといって、

事件が完全に終わるわけでもありません。

被害者の人生は続きます。

家族の人生も続きます。

加害者も、

刑を終えたあと社会で生きていくことになります。

だからこそ私は、

事件はニュースの数分間だけでは分からない

と思っています。

何日も法廷に通って、

証言を聞いて、

初めて見えてくるものがあります。

それでも、

全部分かるわけではありません。

裁判所で見えているものだって、

事件のすべてではないと思います。

だから、

簡単に分かった気にならないこと。

それが大事なのかもしれません。

『外道の歌』を見て、

本当にドキドキしました。

怖かったです。

でも、面白かった。

そして、

こんなに事件について考えながら見たドラマは久しぶりでした。

裁判を傍聴している私だからこそ、

余計に刺さったのかもしれません。

悪人。

被害者。

加害者。

刑罰。

復讐。

更生。

正義。

一つひとつの言葉は簡単です。

でも、

実際の人間はそんなに簡単ではありません。

今回傍聴した売春防止法違反事件でも、

被害女性がいました。

監視する側の被告人がいました。

その上には責任者がいました。

お金を払う人がいました。

そして、その構造を取り囲む社会がありました。

だから、

一人だけを見て終わらせてはいけない。

もちろん個人の責任は考える。

でも同時に、

「なぜ、こうなったのか」

を考える。

そこまでやって初めて、

事件から学べることがあるのではないでしょうか。

そして私は、

23歳の看護師として、

これからも患者さんを見るとき、

裁判を傍聴するとき、

ニュースを見るとき、

できるだけ一つの場面だけで人を決めつけないようにしたいです。

声を上げられない人の沈黙に、

少しだけ想像力を持てる人でいたい。

逃げられない人を責めるのではなく、

その人が逃げる力を失っていないか考えられる人でいたい。

そして、

目の前で誰かが明らかに苦しんでいるのなら。

見て見ぬふりは、絶対にしない。

『外道の歌』を見終わったあと、

私は改めて、

あの裁判を傍聴したときに自分が最後に書いた言葉を思い出しました。

事件は、

ニュースの向こう側だけで起きているわけではありません。

だからこそ、

少しだけ周りを見ること。

少しだけ想像すること。

そして、

「おかしい」と思ったときに、その感覚をなかったことにしないこと。

それだけでも、

誰かを救える瞬間があるのかもしれません

外道の歌は、こちら見れます⏬



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