その前から、美しかった
二拠点生活をしている。
ここ三年ほど、夏になると東京を離れ、生まれ育った函館で過ごすのが習慣になった。
今年も例外ではなく、東京ではパソコンの前で季節が過ぎていくのに、函館へ帰ると、途端にアクティブになる。不思議だ。
帰省して間もなく、
両親と道東を巡る旅へ出かけた。
今回の旅には、ひとつ大きな目的があった。
羅臼から出港するクルーズに乗り、
根室海峡でクジラを見ることだ。
「せっかくなら一度は見ておきたい。」と両親は数か月前から楽しみにしていて、旅行の日程もほとんどクジラ中心に組まれていた。
私はというと、もちろん見られたらうれしい。
でも正直なところ、船に乗って海へ出られるだけでも十分楽しい気がしていた。
旅から戻り、まだそんなに時間が経っていない。
それでも、心だけがまだあの海に残っているようで、あの日のことが何度も頭に浮かぶ。
だから今日は、そこで感じたことを書いておこうと思う。
羅臼と国後島にはさまれた根室海峡は、地図で見るよりずっと広かった。
海は青いというより、深い。
空との境目がわからなくなるほど水平線が遠くまで伸び、その上を風が遊ぶように吹いていく。
外国人観光客も多く、小さな船にさまざまな国の言葉が集まっていた。
出航前から、どこか遠足の朝のような高揚感が漂っており船が沖へ出ると、ガイドさんがマイク越しに元気よく叫んだ。
「右舷をご覧ください!」
「潮吹きを見つけた方は教えてください!」
その瞬間、船の空気が変わる。
各自持参してきた双眼鏡や大きなカメラが一斉に持ち上がり、望遠レンズが同じ方向へ向く。
誰もが海のどこかに隠れている「正解」を探していた。
答えはクジラである。
知らない人同士なのに、「見つけたい」という目的だけは完全に一致しており、その妙な連帯感がおもしろかった。
もちろん私も探した。
……ただ、その前に目を奪われるものが、いくつもあった。
どこまでも続く海の青さ。
風に乗って、ほとんど羽ばたかずに滑っていく海鳥。
銀色に光りながら走る小魚の群れ。
船を追いかけるようについてくるイシイルカたち。
マグロやサメまでもが、当たり前のように目の前に登場した。
そして。
波に揺られて、ぷかぷかと漂う一匹の大きなクラゲ。
私は思わず「わぁ!クラゲだ!」と声が漏れた。
透明な傘が、海の光をゆっくり集めたり返したりしている。
“こんな広い海の真ん中で、
一匹でちゃんと暮らしている。”
そう思っただけで、感動してしまった。
すると、近くにいた人が少し肩を落として苛立つように言った。
「なんだ、クラゲかよ。」
別の人も笑いながら続ける。
「紛らわしいなあ。」
その場に小さな笑いが起きた。
私はその反応に驚いた。
クラゲは何も悪くない。
ただ、クジラではなかっただけだ。
あの船には、
「感動するなら、もっと大きなものにしなさい」
とでもいうような、
誰も口にしない空気が流れていたからだ。
実は私は、この感覚を
もうずっと昔から、何度も味わってきた。
良い悪いの話ではなく、例えば東京では
近所の公園へカメラを持って散歩に出かけることがある。
すると、住民に「今日はどこ行くの?」と聞かれる。
まるで登山にでも行くようなリュックや大きなカメラをぶらさげているからだ。
「そこの公園です。」
「え、公園?旅行じゃなくて?」
そんな反応が返ってきて、ウケを狙ったつもりもないのに笑いが起きる。
確かに、その公園は有名でもなければ観光名所でもない。
ガイドブックにも載っていない。
SNSで「映える」と紹介されることも、おそらくない。
けれど昨日まで閉じていた花が、今日は静かにひらいている。
木漏れ日の模様は少しずつ形を変え、川に落ちる光も、きらめき方も昨日とは違う。
ハトは今日も胸を張って歩き、
鴨やカワウ、カワセミは、その日その日でお気に入りの場所を見つけてくつろいでいる。
名前も知らない虫が、小さな葉を懸命によじ登り、風が吹くたびに、草や木は別々の音色でささやき合う。
同じ公園なのに、昨日と同じ景色は一度もない。
そんなものを見つけるたびに、「今日も来てよかった」と思う。
だから私には、「何もない場所」という言葉が、どうもしっくりこない。
そこに何もないのではなく、
まだ誰も見つけていないだけではないか、と考えてしまう。
きっと周囲の反応を見ている限り
多くの人は、「特別なもの」に感動するのだと思う。
珍しいもの。
有名なもの。
大きなもの。
滅多に見られないもの。
結局、その日、クジラは現れた。
潮を吹き、尾びれを高く持ち上げ、静かに深い海へ帰っていった。
その姿を見送っているうちに、気がつけば涙がこぼれていた。
けれど、その涙はクジラだけのものではない。
広い海も、風も、海鳥も、小魚も、クラゲも。
その日出会ったすべての命が少しずつ心に積もっていき、最後にクジラという景色を前にして、静かにあふれた涙だった。
たぶん、私の感動は少しだけ広く散らばっている。
クジラを見たときの「すごい」が、
クラゲにも、海鳥にも、小魚にも
公園の木漏れ日にも、名前も知らない草にもある。
人の感性や感動の対象に何が正しいという話はないが、ただ、私は少しだけ「驚くハードル」が低いのだろう。
そのおかげで、世界は退屈する暇がない。
そして、あの日もう一つ思ったことがある。
私は、誰かの“クラゲ”を笑う人にはなりたくない。
クラゲに心を動かされる人がいてもいい。
道端の花に立ち止まる人がいてもいい。
夕焼けの色だけで一日が報われる人がいてもいい。
その人にとっては、
それがクジラを見つけた瞬間と同じくらい
大きな出来事なのかもしれないのだから。
人は、自分が感動するものを基準に、
他人の感動まで測ってしまうことがある。
でも、本当は感動に大きさなんてない。
あるのは、その人だけの「見つけた」という喜びだけだ。
世界は今日も、
誰かの「すごい」で満ちている。
その「すごい」は、
案外クジラではなく、
小さなクラゲのほうが、
先に教えてくれるのかもしれない。
