Le Cheval Pâle Tableau Ⅸ
神谷は、キーケースからベルベットに包まれた鍵を取り出した。その鍵は精巧な真鍮製で、ホテルの部屋のクローゼットに仕舞われたライフルケースの鍵と全く同じものだった。それはつまり、この鍵がここで使われることはないということを示唆していた。
彼は今、スタリングラード広場のカフェの窓から、繰り返しテレビで流されるニュースが指し示す数字がこの住所であることに確信を持ち、「めんどくさいことしやがって」と呟きながら眺めている。それは、広場の一角にある、ごく普通のビルだった。だが、神谷にはそれが普通には見えなかった。ビルの入り口には監視カメラが一つもなく、夜にもかかわらず、窓から漏れる光が一切ない。まるで、そこに住む人々がいないかのように、静まり返っている。
神谷は、コーヒーを飲み干し席を立った。支払いを済ませてカフェを出ると、彼はそのビルへと向かう。道すがら、若者たちの集団が彼の前を通り過ぎていくが、神谷には目もくれない。18区での一件で、彼は「危険な存在」として、すでにこの地域の裏社会に認識されているのかもしれない。
ビルの正面に立つと、彼は扉に触れた。古びた木製の扉は、冷たく硬い。神谷は、ポケットから取り出したメモの数字をもう一度確認する。
(フランス語でサブリミナルとかわかんねぇよ……)
耳に付けた翻訳イヤフォンを触りながら、苛立っていた。
神谷は、自身の行動が、マルセルとハンナが引いた見えない線に辿り着いたことを自覚していた。恐怖心はなかった。彼は扉を強く押した。鍵穴は見当たらなかったが、わずかに隙間が開き、静かに扉は開いた。
中は、暗闇に包まれていた。神谷はスマホのライトをつけ、一歩足を踏み入れる。
そこは、まるで時間が止まったかのような空間だった。埃をかぶった家具、色あせた壁紙。そして何より、壁一面に広がる無数の地図が彼の目を釘付けにした。それは、パリ市内から郊外まで、詳細に書き込まれた地図だった。特定の場所には赤い印や、神谷には理解できない暗号のようなものが書き込まれている。
神谷は地図の一枚に目を留めた。それは、彼が今いるこのスタリングラード広場周辺の地図だった。そこには、カフェや通り、そしてギャングたちの縄張りを示すような印が書き込まれていた。そして、その印の一つが、彼が18区で出会ったギャングのリーダーの居場所を示していた。
壁には何枚かの人物の隠し撮りであろう写真が貼られていた。そこには、ル・ムーリスの夜会で会った林と、彼に紹介された人物が何人か写っている。
神谷は、自分が何者かに監視され、誘導されていることを改めて確信した。そして、この場所は、その監視の「目」が置かれている場所なのだろう。
彼は、地図の裏側に、何か紙が貼り付けられているのを見つけた。それを剥がすと、そこには手書きで書かれたメモがあった。
「歓迎する、TSUBASA。君の相棒も喜んでいるだろう」
それは、神谷がクローゼットに仕舞い込んだスナイパーライフル「McMillan TAC-50」のことを指しているようだった。そして、メモの最後には、具体的な住所が書かれていた。それは、パリ郊外にある、一軒家の住所だった。
神谷は、そのメモをポケットに入れ、自分の次のミッションが、この場所から始まることを悟った。神谷は、静かに呟いた。
「パリの闇に、ようこそ……ってか」
彼は静かに扉を閉め、夜のモンマルトルの丘へと向かっていった。
事態を整理しながらしばらく歩き、モンマルトルの丘へたどり着く。階段の中ほどに座り、パリの町を見下ろしていた。
「予想より早く辿りついたな」
マルセルの笑いと低い声が、背中を叩いた。神谷は振り返ることもせず、
「20代のうちに経験できることは全部やりなさい。って千石さんに言われてここに来たからな」
と不貞腐れる。
マルセルは「何を感じた?」とだけ問うと、
「何らかの世界大会関係者に密売人がいる。まずはサッカーで、遠征グッズや選手の持ち物に紛れて密輸しているとかか?ストリートギャングはまやかしで、大きなカルテルが潜んでいる。今回はそれの炙り出しと阻止、抹殺といったところか?」
翻訳イヤフォンから、「資金洗浄や支払いは、先日参加した夜会よ」とハンナの声がした。
(やっぱり全部見られていたのかよ……)
神谷は頬杖をつき、また不貞腐れてみた。
マルセルが神谷の隣に座ると、一本のミネラルウォーターを差し出した。「今日は休肝日なんだろ」と、また馬鹿にするように笑っていた。
(どこまでもお見通しってか……)
辺りは街灯と月明かりしかなくなった頃、マルセルが口を開く。「俺たちばかり見てて、ハンデがあるのは嫌だろう」
と言った途端、座ったままのマルセルのジャケットの中からサイレンサーを付けた発砲音が連続して聞こえた。
すると、暗闇に隠れて見えなかったストリートギャングたちが、何体も後ろに吹っ飛ぶ影が見えた。神谷は驚いて目を見張る。ストリートギャングたちのそれぞれの眉間には、正確な狙撃跡があり、血飛沫はほぼなかった。
神谷がマルセルの方を見た時には、マルセルの手には何も持っておらず、むしろ両掌を地面について背伸びすらしている。
「まあ、そういうことだ」
「俺は店に行くけれど、翼は休肝日だろ。明日はホテル滞在最後の日になる。ゆっくり休めよ」
マルセルはそれだけ言い残し、階段下に停めてあったバイクに乗り、闇の中へと消えていった。
神谷は(これが千石さんと宮内さんのレベルか……まだまだだな俺……)とまた不貞腐れて、ホテルへと歩き出した。
