上尾市平方に存在した中武銀行
上尾の外れにある平方区域。
上尾市民としては村社である橘神社や上尾橘高校のイメージが強いだろう。
この地区、上尾駅から離れ、荒川を挟んで川越市の対面にあり上尾と川越間の交通の要衝でもあった(過去形)。
よくある郊外の住宅地や農村のように思えるが町を歩いているとどこかノスタルジーな雰囲気がある。
「何かここには歴史を感じる」と古いもの好きはクンクンと感じるだろう。
そう、この平方地区は江戸時代から昭和初期まで荒川を使った舟運業が盛んで、今では信じられないほどの一大商業地区であったのである。

今回、私が興味をもったのはこの平方地区に唯一あったと言われる金融機関「中武銀行」である。
上尾市民ならば、平方を本店とする銀行があったと聞くと興味深いのではないか。

ということで今回、中武銀行について調査してみた。
以下「上尾市史」より
大正十二年末現在で大正年間、上尾市域には、総武銀行上尾支店・同原市支店・深谷銀行上尾支店の三行のほか、唯一市内に本店を持った銀行として平方村の株式会社中武銀行があった。
この中武銀行の前身は、明治三十三年五月二十九日に神奈川県下で誕生した管理銀行であった。それが、大正五年二月、東京下谷区に移り、龍王銀行と改称。さらに、大正九年二月十一日、平方村の石川元之輔(醤油醸造業及び酒類販売業)、石倉又左衛門(味噌・醤油醸造及び米穀販売業)、永島荘次(味噌醸造及び荒物販売業)ら有志五人が龍王銀行を買収して、川越の実業家で衆議院議員の綾部惣兵衛を重役に迎えて、三月一日に村社橘神社前で改称して中武銀行として開業することになった。この時、龍王銀行のときの資本金七万円を中武銀行では五〇万円とし、初代取締役頭取に石川元之輔が就任し、実務は専務となった石川久治(平方村助役)が担当。取締役には、この二名に加えて綾部惣兵衛・松本富三郎の計四名、監査役は石倉又左衛門、永島荘次の二名の布陣であった。
全身の龍王銀行とは山梨県の竜王地区と関係があるのだろうか..?
資本金50万というのは現在の価値でいうと3億くらいだろうか?
中武銀行の平方村開業には、①埼玉県内の模範産業組合の一つである平方村信用販売購買組合(現・上尾市農協平方支店)が口座を開設していたこと(竜王銀行に?)、②米・麦・甘藷・味噌・醤油・煉瓦・瓦・蚕種・産繭など平方村全体で五七万七〇〇〇円余の年間総産額があったこと、③荒川舟運により繁栄していた平方村に満足な金融機関がなかったことなどが、この期に村へ銀行本店を呼び込んだ要因となったこと思われる。


中武銀行は、平方村に開業後の大正九年四月二十五日、臨時株主総会において、東京市本所区にあった支店(旧本店)を廃止することを決定。ついで大正十年五月五日には、大宮の機業地帯である植水村佐知川の共栄銀行(明治三十三年十月創業、資本金三万円)を合併した。この間、大正九年四月には同行は埼玉銀行会に加入していた。
「植水村佐知川の共栄銀行」
また興味深い情報が
植水地区とは僕が今住んでいる大宮にある、西区佐知川あたりを指すのだが、そんなところに共栄銀行などというものがあったとは初耳。大宮の機業地帯?次の機会に調査しよう。
第一次世界大戦後の恐慌時の第二八期営業報告(大正九年七月)の営業景況では「空前絶後ノ大動乱ヲ演ジタル上半期ノ跡ヲ受ケシ今期ノ一般経済界ハ連的不況ニシテ、諸物価ハ大暴落ヲ現出シ一般銀行ハ貸出シヲ警戒シー期間通ジテ殆ンド萎縮沈滞の状ヲ呈シタリ、生糸、産米等ノ主要物産ハ漸次沈下落ノー方ヲ辿リ随テ地方農家ノ経済ハ潤沢ナラズ、財界ノ前途ハ容易二予測ヲ許サザルノ形勢ニアルヲ以テ、本行ハ前陳ノ主義方針ヲ踏襲シ以テ波瀾多カルベキ来期ニ臨ミテ万違策ナカランコトヲ期ス」と説明している。

定期預金、当座預金、通知預金、当座貸越、手形割引などの金融システムは当時からあったようである。
共栄銀行合併後の大正十年一月には、元共栄銀行頭取の飯野源蔵が、中武銀行の取締役(のち頭取)に就任。役員の変動激しく、死亡・退任などにより、大正十二年一月に代表取締役には頭取飯野源蔵(元共栄銀行頭取)が、取締役には綾部惣兵衛・石川久治・松本富五郎・飯野金之助が就任。なお、大正十五年七月には、頭取に柴田蔵次(大宮町)が、取締役には石倉又左衛門(平方村)・飯野金之助(植水村)・石川新兵衛(平方村、味噌製造業)・石川勝治(同、醤油醸造業)が就任し、監査役は永島荘次・秋山次郎助(平方村長)が選任されていた。

といってもほとんど変わりがないことがわかる
昭和二年三月、国会で関東大震災による震災手形の処理が図られたが、一部の銀行の不良経営が明るみとなり、時の片岡蔵相の発言が引き金となって全国的に銀行の取り付けが起こった。そのため、日本経済は未曾有の大金融恐慌に見舞われ、政府は応急策として全国の銀行を四月二十二日・二十三日の両日、一斉に臨時休業とした。また、緊急勅令として二十二日から三週間のモラトリアム(支払猶予令)を発して五〇〇円以上の預金支払を延期する。
昭和二年三月三十日、銀行法が公布され、翌三年一月一日に施行された。当時、全国に一二八三行あった銀行の約半数の六一六行が、この資本制限に抵触したという。
上尾市域においても同様に、銀行法施行によって、銀行の買収・合併・解散などが行われた。

上尾市域に唯一本店が置かれていた中武銀行は、銀行法公布以前から埼玉県などの仲介もあり、大正十五年十二月には浦和商業銀行との間で「合併ニ因ル申合書」が作成された。しかし、合併条件は、中武銀行株一〇株に対して浦和商業銀行株七株というものであったため、合併成立には至らなかった。中武銀行は、金融恐慌後にとられた三週間のモラトリアム期間後の昭和二年五月十八日に至っても、株式利益配当を当分行わないことや、貸金の新規取引の禁止などを申し合わせた規約を作り、開店休業状態を続けていたのである。

こうしたなかで、中武銀行は抜き打ちで度重なる大蔵省の査察を受けていたが、昭和四年六月の検査答申書の中で、同銀行の不良資産は、「欠損見込額が二一万四二六一円余、回収の困難な固定資産は七万八五〇四円余、急速に回収、または債権保全のために相当の整理を要する額が三万一四七八円余のほか、前期繰越損金が五一〇〇円余」と試算されていた。
これに対し、中武銀行側は昭和二年五月に再度浦和商業銀行との合併仮契約を取り交わしたものの、認可までに至らず、さらに、武州銀行との合併を申請するも実現していないとし、今後も資産整理と合併に専心努力するが、昭和五年上半期までに見込みがない場合は、預金者の保護に万全を期して五年末までに任意解散する意向である、と回答している。
しかし、昭和六年九月に満州事変が勃発し、昭和八年ころになると農村不況も立ち直りを見せ、好転に向かいつつあることから、中武銀行は本格的積極策へと方針を転換する。ところが、昭和九年二月、中武銀行は再度大蔵省の査察を受けることになり、その時点で欠損見込額一七万三二四四円余、不良固定額三万五八八八円余、要整理額一三八五円余の不確実資産の存在が明らかになった。これに対し大蔵省は、同年四月、前回答申後の履行努力の形跡無しと評価し、植水支店については本年度中に廃止し、本店についても不確実資産の償却(回収不動産の資産化、未払込株金の徴収など)を可及的極力速やかに努め、早期解散を示唆していた。
中武銀行は、昭和十一年十二月七日に開催された臨時株主総会で、「昭和五年以降業績振ハズ、最近ハ開店休業の実状ニアリテ銀行ノ機能全ク喪失シ居レル」ことを理由に解散を決議し、昭和十一年十二月十二日に銀行廃止の認可を受け、清算会社として商号を中武商事株式会社として業務内容を改めたのである。

この写真は中武銀行の写真かは不明であるが、同文書内に添付されていたものである。当時の行員職員の様子が垣間見れる。
