【243】 伊丹万作の政治に関する随想
(写真は国会議事堂)
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現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。
彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。
社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。
彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。
したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。
現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。
現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。
国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。
現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。
すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。
しかし、それだけではまだ十分ではない。粗悪な候補者どもの退場にダブツて、真に民主的な文化国家にふさわしい、優秀なる人材、良心的な候補者を多数登場させなくてはならぬ。それには少なくとも現在の立候補に関する法令、手続などを根底から改めなくてはならぬ。
私一個の意見としては、立候補を成立せしめる基礎を候補者自身の意志に置く現行の法規を改め、これを候補者以外の多数の推薦者の意志に置くことに改め、候補者自身は選挙費用として一銭の支出も許さぬことにしなくては理想的な選挙はとうてい望み得ないと信ずる。また、かくすることによつてのみ、真に優秀な、そして私欲のない代議士を得ることができると信ずる。
『政治に関する随想』(伊丹万作)
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この随想の発表は、80年前の昭和21年。日本の政治は、この80年で何か進化したのか?
