【260】 矢部貞治の政治学入門
(写真は『チェーザレ・ボルジアとマキャベリ』(フェデリコ・ファルッフィーニ))
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5 政治と宗教
上に述べたことと関連して、特に注意しておかねばならぬことは、政治と宗教を混同してはならぬということである。
「祈祷書のみでは国家統治はできない」というのは、永い中世紀の間宗教の中に埋もれていた政治を、その固有の基礎の上によみがえらせ、もって近代政治学の祖と称せられるマキアヴェリの言である。
マキアヴェリも宗教を政治の手段として用いることはたいせつだと認めているが、政治と宗教を混同することは、根本的に誤りだということを説いているのである。
たしかにこの二つのものは次元を異にする。宗教は絶対の神仏に帰依し、完全に自己を否定することによって、救いと安心立命を得ようとする。それは神秘な神の力によって「奇蹟」が行われることを信じ、ひたすらに神仏に祈念することを重視する。
あさましい「この世」に、いかに侵略や搾取や残虐や不正が行われても、天国と極楽が「あの世」にあると信ずるのである。しかし政治はそういうものではない。
政治の任務は「この世」の正義と秩序と安全にこそあるので、奇蹟を当てにして政治の計画を立てたり、「あの世」の天国を信じて現世の侵略や搾取に無抵抗でいるというわけにはゆかない。
そういうことなら政治の存在価値はない。宗教はまた権力や武力を超越した世界に属する。しかし権力や武力を否定した世界には、政治は存在の余地がない。
たとえば「如何なる意味の戦争も絶対に否定する」とか、「たとえ国亡ぶとも平和を」とかいう議論は、右に説くような宗教の立場なら諒解できるが、しかし政治の立場では認めることはできない。
不法な侵略が行われるなら、これと戦うことは国家の当然の権利でありかつ義務である。「いかなる戦争も絶対に否定する」というなら、侵略を防ぐための戦争も否定するということである。それは現実においては侵略を是認しそれに奉仕することにほかならない。
国が亡びてもよいというなら、政治など存在の意味はない。国家の安全と独立の保持は、政治の第一任務なのである。「あの世」のことは別とし、現世では侵略に奉仕したり、国が亡びてもよいというごとき「平和」はあり得ぬ。
「人もし汝の右の頬を打たば左の頬をも出せ」
という宗教の教えは、絶対の暴力否定を説く崇高な教えであるが、それをそのまま政治の原理として、「他国がもし汝の国の北の半分を侵略したら南の半分も出せ」などということはできない。
「善人すら成仏すいわんや悪人をや」
という高僧の言は、宗教の立場においてはまことに尊いが、それをすぐ政治や法律の原理に取入れて、善人よりも悪人をたいせつにせよというわけにはゆかない。
政治と宗教は次元を別にするものであり、政治家は宗教家ではなく、政党は信者の宗団ではない。このことはある程度まで政治と道徳との関係についてもいえる。
6 政治の公共性
政治を宗教または道徳と混同してならぬことは、別の角度からもいえる。
すなわち政治は、国家権力をもって社会内の対立抗争を統合し、法秩序を創造保持し、国家の生存と独立について国家目的を実現することで、常に国家の公的な意思と利益を前提とする公共性を持つものであるから、宗教や道徳が個人的な精神の問題に関する限り、領域を異にするのである。
もとより公的な意思や利益といっても、現実においては私的または部分的な意思や利益が統合されて成り立つので、国家意思というのも、現実においては支配権を握った階級や政党の意思なのである。
しかし国家の意思として認められるのは、生のままの階級や政党の私的または部分的な意思ではないのであって、法秩序と政治組織の中で一定の手続をもって正当化されたときに、初めてそれが国家の意思と認められるのである。
この法的な手続を経て初めて、部分的な私的な意思や利益が、公共の意思や利益としての合法性を獲得するので、そしてその手続の過程の中で、多くの対立する部分的な意思や利益が、多少とも弁証法的に統合されるのである。
後に説くような社会集団の政治闘争は、正にこのような公的な合法性と権威を、自分が掌握しようとする闘争なのである。
階級主義の立場に立つ者は、あるものは階級的な意思と利益だけで、公共の意思とか利益とかいうものはないというが、それは自分が権力を掌握しない間のことで、自分が権力を握ったときは、その支配を必ず公共の意思または利益の名において合法化するのである。
公共の意思や利益という理念を頭から否定したら、自分が権力を握っても、その支配権を全国民に対して合法化する方法はない。
階級の意思が支配的権威となるのは、公共の意思の存在を否定することによってではなく、むしろ自分の階級の意思が公共の意思に合するのだということを、法的な手続で基礎づけ、いわば「錦のみ旗」を自分が取ることによってなのである。
政治には常に公的な権威、共同意思、公共利益という理念が前提されている。それを否定することは政治を否定することである。
そういう意味で政治の価値は、個人の道徳価値や宗教価値とも異なるのである。
この場合にも国家の一員でない個人はなく、個人と無関係に国家というものが存在するわけでもないから、政治価値と個人の道徳価値との間に、深い関連のあることは否定できないが、しかし政治は既にいうように、社会内の対立抗争を権力的に統合して国家の意思と秩序を樹立し、国民の生存と独立と安全を保障することであるから、そのような政治の価値を、先に述べたような個人の安心立命と魂の救いに関する宗教の価値や、正義と善への人間の自由意思の志向である道徳の価値と、すぐに同一視することはできないのである。
政治ではただ善と正義への志向というだけでは問題にならず、国民にもたらす結果に責任があるのである。
例えば「清貧に甘んずる」ということが道徳上の善であっても、必ずしもそれがすぐ政治上の道義だとはいえない。国民生活をできるだけ豊かにすることが善い政治であろう。
修身斉家治国平天下という東洋政治哲学の教えは、修身斉家の徳があって初めて治国平天下の徳を持ち得るという意味で、政治家の修養を説く点では極めて正しいが、しかし修身斉家という個人の徳が、そのままに治国平天下という政治の徳だということはできない。個人としては善い人でも、それだからすぐ優れた政治家になれるとは限らない。
『政治学入門』(矢部貞治)
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