【077】 玄武門と原田重吉
(*写真はブッポウソウ目カワセミ科ヤマショウビン属ヤマショウビン)
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日清戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲すべしという歌が流行った。
月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非国民として擲られた。改良剣舞の娘たちは、赤き襷に鉢巻をして、「品川乗出す吾妻艦」と唄った。そして「恨み重なるチャンチャン坊主」が、至る所の絵草紙店に漫画化されて描かれていた。
そのチャンチャン坊主の支那兵たちは、木綿の綿入の満洲服に、支那風の木靴を履き、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、辮髪の豚尾を背中に長くたらしていた。
その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥っていた。彼らの姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。
彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高粱畠の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野曝にした。殺される支那人たちは、笛のような悲声をあげて、いつも北風の中で泣き叫んでいた。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。
陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。軍律を厳守することでも、新兵を苛めることでも、田舎に帰って威張ることでも、すべてにおいて、原田重吉は模範的軍人だった。それ故にまた重吉は、他の同輩の何人よりも、無智的な本能の敵愾心で、チャンチャン坊主を憎悪していた。
軍が平壌を包囲した時、彼は決死隊勇士の一人に選出された。
「中隊長殿! 誓って責務を遂行します。」
と、漢語調の軍隊言葉で、如何にも日本軍人らしく、彼は勇ましい返事をした。そして先頭に進んで行き、敵の守備兵が固めている、玄武門に近づいて行った。彼の受けた命令は、その玄武門に火薬を装置し、爆発の点火をすることだった。だが彼の作業を終った時に、重吉の勇気は百倍した。彼は大胆不敵になり、無謀にもただ一人、門を乗り越えて敵の大軍中に跳び降りた。
『日清戦争異聞 原田重吉の夢』(萩原朔太郎)
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2025年は日清戦争勝利130周年の記念の年。チャイナ史上、最悪の暗黒時代、清王朝が倒れるきっかけとなったこの戦勝、チャイナ人も祝福すべし。
なお玄武門と原田重吉の逸話は、Amazon Kindle で販売中の拙著『明治44年 日本初のサスペンス 『朝鮮』(著:高濱淸) を原文で読む』および『昭和四年の日本人は、朝鮮満洲に何を思ったか? 日本初の民間人団体旅行の紀行文 鮮満十二日 鮮満視察団紀念誌 を原文で読む。』にも登場するので、興味ある方は一読されたし。
暴支膺懲:日中戦争のスローガン。「暴戻支那ヲ膺懲ス」の短縮形。「鬼畜米英」は今でも知られているが、暴支膺懲は廃れて知らない人も多い。今こそ復活させよ。
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朱雀は南、玄武は北。
玄武とは、亀と蛇のキメラ。
チャイナはユーラシア大陸の一部であり、日本より遥かに西洋文明に近い。ギリシャ神話と同じく、チャイナの幻獣、神獣にはキメラが多い。一方日本にはキメラ型の神や妖怪は滅多にいない。鴉天狗くらいか。
次は、数少ない日本のキメラ、件を見てみよう。
