【248】 創価学会と牧口常三郎
(写真は柏崎から望む日本海)
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郷土研究会
明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった。そのときのことは、私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。
石黒忠篤君は、今では政治家になってしまったが、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれていたらしい。
「郷土会」のもとになったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸博士が西洋から帰って来られたので、後には新渡戸先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。
話題のもとは会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいている。ことによると牧口君が連れて来たのかも知れない。
小田内君の関係で一人、二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが、全部新渡戸先生の方へ移ったのである。新渡戸邸へ移ってから初めて加わったのは三宅驥一君であった。那須皓君もそのころから来たが、この人はどちらかというと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だった。
先生のお宅では毎回会費五十銭をおさめて、そのころとして二円か二円五十銭くらいのごちそうをして下さった。名ばかりの会費をとって、来客の面目を害しないように心づかいして下さったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て、楽しい会であった。
明治四十四年の五月、私は牧口君を誘って、甲州の谷村から道志谷をぬけ、月夜野を経て相模に出たことがある。そのころ電報が三日もかかるという山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であった。非常に気持のよい旅で、今も道志川の風景が鮮かに思い出されるほど、印象深いものがあった。
この牧口君は創価学会の創始者であり、最近後継者の戸田城聖君も亡くなったので、世間の関心もあるかと思う。牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範学校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だったらしい。
私は前からなかなか関係が深かったから、『価値論』という本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよく分らない。若い者を引立てることが好きで、師範学校で教えたお弟子たちを大変可愛がったりするのが、一つの特徴であった。
北海道出身の社会学者田辺寿利という人も、お弟子の一人だったと思う。牧口君はどういうわけか文部省に入って、私のところへ来たのは、文部省の嘱託をしていたころであった。
郷土会はやがて『郷土研究』を出す母胎となり、今日の民俗学会の基礎となって来たが、そのころはまだ民俗学という言葉は一般化されなかった。たしかいちばんはじめにフォーク・ロアを訳されたのは上田敏君で、俗説学とされていた。大藤時彦君が、そういう歴史をよく調べているが、その話でも上田君がいちばんふるいということである。
『故郷七十年』(柳田国男)
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創価学会の創設者、牧ロ常三郎(1871年-1944年)は国粋主義者であり、創価教育学支援会には、新渡戸稲造、柳田國男、犬養毅らも参加していた。しかし牧口は神道否定論者であった。二代目の戸田城聖から反戦反核主張などが始まり、三代目の池田大作から、政治への介入、中共道まっしぐらの「集金マシーン」と化したのである。
