現実の片割れ【小説】
薄いレンズを一枚、目の中に入れただけで世界の全てがくっきりと浮き上がる。整然と並んだ歯ブラシや歯磨き粉、もう若くはないからとこだわったメイク落としに洗顔フォーム。それらを清々しい気持ちで眺めながら、まだぼんやりしている反対側の世界も鮮明にするべくもう片方のレンズを入れようとした。
「……やだ、また?」
思わずため息が出る。コンタクトケースの左側の底をいくら指先で探っても、洗浄液が溢れるばかりでレンズ本体が入っていない。しばらく蓋の裏や洗面台を探していたが見つからないので仕方なく戸棚から新しい左目用のコンタクトの箱を取り出し、連結部分をぱきんと折って切り離す。隣に置いてある右目用はまだ箱の中身がたくさん残っているのに対し、左目はあとひとつしか残っていない。
まったくどうしてこんなことになるんだか、と思いながら洗面所に戻って新しいレンズのフィルムを剥がし、ゆらゆらと漂うそれを指先に乗せてさっと目の中に入れる。乾いた瞳に保存液が染み渡り、ようやく視界がクリアになった。
こういうことが度々あった。前の日にきちんと保存液へ入れているはずなのに、次の日になると消えている。しかも無くなるのは必ず左目のコンタクトなのだ。最初はうっかり排水溝の中へ落としてしまったのかと思っていたが、あまりに続くと変な妄想をしてしまう。たとえば左目の度数だけ製造の問題で液に溶けてしまう不具合が起きているとか、忍び込んだ誰かが悪戯しているんじゃないかとか。しかし当然眼科からそういった報せを受けたことは無いし、今の私は一人暮らしで、時々泊まりに来る恋人も昨日は来ていない。つまり謎、である。
――困るんだよなぁ。
残りの数を頭で計算しながら思う。コンタクトレンズも安くはない。眼科に行くのだって結構面倒なのだ。土曜は午前しかやっていないからいつもめちゃくちゃに混んでいるし、週末はデートの予定が入ることも多いし。左のコンタクトのためだけに行くのはちょっと腰が重かった。
とりあえず今月は今ある分で乗り切れるか、と開いたままの戸棚をスリッパの先で閉め、化粧をするべく机の上に置いてあるメイク用品の入った籠を引き寄せる。コットンに化粧水をたっぷりと染み込ませ、メイクが綺麗に乗りますようにと祈りながら顔全体に優しく滑らせていく。今日は記念日だから、特に気合を入れないと。
「あのさ、私たち、別れよ」
は、と言いかけて口をつぐんだ。さっきまでずっと楽しそうにしていた小春の表情は無になって、太ももの辺りで握りしめた手は寒さのせいか少し震えていた。
「ニカちゃんのこと……好きだったけど、ちょっと、疲れちゃって」
「そ……っか」
そう言ったものの、状況はまだ飲み込めていなかった。今日見た小春の笑顔が脳裏を過る。あれは本心からと思ったが、私の見間違えか? すうっと胸の裏側に影が落ちる。冷たい。一拍遅れて、これから訪れるであろう寂寞の日々を脳に思い描いた時、裏切られたような、罵りたいような怒りの炎が全身をひと舐めした。が、それが口から噴き出しそうになるのをなんとか堪えた。小春が求めているのは当然罵倒ではなく、冷静な了解の返事のはずだから。
「分かった。ごめんね、今まで付き合わせちゃって」
「ううん、私こそごめん。今日のために色々、してくれたのに」
俯く小春に駅まで送ろうか、と言ったが軽く首を振って断られ、じゃあ、と別れた。塗りなおしたリップを凍てつくような風が撫ぜた。あっけない終わりだった。
ジントニックをほとんど一気に飲み干して、ぐらぐらする頭でお代わりちょうだいと言えばママはしょうがない子供を相手にするような表情になった。といっても、初めての人からしたらガタイがよく、こんがりと肌の焼けた、やけに身ぎれいなおじさんが小首を傾げているだけに見えるだろう。ここは家から五分のところにあるゲイバー「オカリナ」である。
「いやねぇ、ニカちゃんたらそんな飲み方して」
「だって、付き合って二年目の記念日にそんなこと言われるなんて思ってもみないじゃん」
それはそうよね、と頷きながらカウンターの向こう側から腕を伸ばし、すっとグラスを回収する。いつでも綺麗に整えられたその爪を見ると私はほっとしてしまう。ジンを注いでいる間にカウンターの端から「こっちもお代わり」と氷を鳴らす音がし、ママはそれに対して「アンタ弱いのに飲み過ぎよ」とぴしゃりと返す。これもいつものやりとりで、それに加え聞きなれたBGMとバーの環境音がここに変わりない夜があることを教えてくれる。
「でもま、ここらじゃくっついたの別れたのって話は腐るほど聞くからね。うちの子たちもしょっちゅうそんな話して」
「でもさぁ、小春の趣味に合いそうな映画を観にいって、よく使ってるブランド見てまわって、好きそうな店でお祝いディナーした後だよ? 絶対楽しんでくれてたのに」
どこで買ったのか、ピンク色のマドラーがからりと音をさせて四杯目のジントニックが目の前に置かれる。
「あんたが一生懸命準備してるって分かってたから、言い出せなかったんでしょ」
「うん……小春にそういうとこがあるのは分かってる。けど、それでもやっぱり先に言って欲しかったよ」
お金や時間が惜しいわけじゃないけど、なんだか一人はしゃいでいた自分が馬鹿みたいで情けなかった。小春がどうしてそういう決断を下したことに関して、心当たりがないのもやるせなかった。
ママが別の客に呼ばれて相手をしに行ったあとで、今更置いてあることに気付いたお通しのナッツを口の中に放り込みながらグラスを傾けていると、入れ替わりに店子……この店のスタッフであるアツヤが私の前に立つ。彼はこの店の中でもどちらかと言えば華奢な身体つきをしていて、仕草もともすれば女性より〝はんなり〟している時がある。
「ねぇねぇ別れちゃったんだって?」
「分かってるならきかないで」
「こんなとこで飲まないで、レズビアンバーに行けば出会いもあるかもしれないのに。なぁんでニカちゃんはいつもここに来ちゃうのかしら?」
わざとらしく店内を見回して言う。客は男性がほとんどで、女性かと思う人もいるが、大概振り向いて顔を見れば男性である。
「家から近いから。それに、ここはミックスバーでしょ? だったら私みたいな客がいても構わないじゃない。ママも追い出さないし」
ゲイバーにもいくつか種類があり、男性の同性愛者のみを受け入れる基本の店から異性愛者でも入れる観光バー、多様なセクシャリティを受け入れているミックスバーがある。この店も看板にはその旨をきちんと表記していて、少ないにしろ私のような女性の同性愛者が客として訪れることもある。
「それに、金払いだっていいわよ」
見せつけるように半分ほど残っていた酒をぐーっと飲み干し、グラスを突き出す。ついでに好きなの飲みなさいよと言えば、アツヤはやだぁ男前! と喜んで受け取った。
「でも酔いつぶれたら知らないわよぉ。あたしもママも、みーんな店出るときはいつも這って帰るんだから」
「いいのいいの、そん時はスミちゃんに送って……」
ふと腰を浮かせてカウンターの中を覗く。強い酒を続けて飲み過ぎたせいでそれだけの動きでも身体がふらつく。
「今日、土曜日よね? スミちゃんは?」
「あーなんか来ないみたいね」
そういえば、というような感じでアツヤが言うので私はむかむかした。
「なんかって……この店で働いてるんでしょ? 連絡のひとつくらいないわけ?」
「さぁ。でもうちの店緩いから、他の子も時々あるのよ。後で理由きいたら二日酔いとか悪酔いとか二日酔いとか色々……あっ同じのいただきまーす」
人懐こい笑みを浮かべてコースターについた丸い結露の沁みにぴったり合うようにグラスが置かれる。しばらくそのままグラスと私を見比べていたが、私がむすくれたままそれを取らないので、置いたままのグラスに勝手に乾杯して飲み始めた。
「社会人としてあるまじき行為だわ……。私なんてどれだけ二日酔いでも会社に行くってのに! ママも怒らないの?!」
「もちろん怒るわよ~。当然給料からも引かれるし。でもママがぶっ倒れそうな顔色で接客してるときは代わりに飲んであげたりするのよ。持ちつ持たれつってやつね」
なによ結局飲みたいだけじゃない、と言うと頬に手を当てほほほと笑った。
「あーぁ、スミちゃんがいないんじゃここでつぶれるわけにはいかないわね」
「なに? 担いで帰らせる気だったの?」
「まぁそんなとこ。前にみんなで閉店まで飲んだときにスミちゃんが一人で帰れないくらいになってたから、唯一まともに歩けた私が送ってあげたの。うちから近いマンションだったから。で、ママが客の私にそんなことさせちゃったからって、もし私がここで酔いつぶれるようなことがあったらどんな状況でもスミちゃんに送らせるって約束取り付けたわけ」
アツヤが苦い顔をする。
「うわぁ、ニカちゃんがお酒強いのは知ってたけど……その状況で歩けたんだったらそんな機会そうそう巡ってこないでしょ」
「だぁから今日かなと思ったんだけどね。仕方ないからこれゆっくり飲んだら帰るわ」
グラスの中の氷をからりと回す。炭酸がしゅわしゅわ音を立て、小さな気泡がアルコールの海をあがってくる。それらは私の思考のようにいつまでも湧き出てくる。
――小春のことは性格も嗜好も全部分かってたはずなのに、一体何がいけなかったのだろう。
身体は酔っているが脳は鮮明に今日の別れを、はじめからそこしか記憶が存在していないかのようにループ再生し続けている。私は頭の奥まで染み込ませるように、ゆっくりとジントニックを流し込んだ。
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