考察を終わらせてくれてありがとう
年始にやっていた、「令和ロマンの娯楽がたり」を見ました。
すごく面白くて、見入ってしまった。
ここ3、4年くらい、わたしは好きなものに対する表現の仕方がわからなくなっていたように思う。
それは多分、SNSに溢れる考察ブームに流されていたからだ。
わたしは考察をかっこいいと感じ、ただ憧れていただけだったのだと、娯楽がたりを見て気付きました。
わたしは少し前、進撃の巨人のアニメを見て、心の底から熱中した。
いろいろ調べていると考察がたくさん出てきて、次第にYouTubeのおすすめ欄も「進撃考察」みたいなので溢れるようになった。
わたしの中には、「進撃が好きで進撃のことを考えていたい気持ち」が溢れ、自分も何かの形でアウトプットしたくなった。
その手段として、自分の前には考察があった。
だから一生懸命時系列や関係性をまとめ、体系立て、頑張って考察しようとした。
でも、できなかった。
難しかったのだ。わたしはYouTubeに溢れるかっこいい賢人たちのように考察をすることができなかった。
それっぽいものを書こうとしても、できない。
そのあとも何かにハマるたびに考察を試みた。
しかしできない。頭を振り絞ってもできない。
そうこうしているうちに心の中の熱も徐々に冷めていくのがわかった。
それは悲しいことだった。虚しかった。
そんな日々の中、ある日令和ロマンがM-1史上初の二連覇を達成した。
「こんなことがあるのか」とびっくりした。
くるまさんのイメージは「考察の鬼」で、わたしがかっこいいと思う考察賢人の一人だった。自分にはできない考察をしている、考察の憧れ。
漫才やM-1やそのほかいろんなものを考察している姿、痺れた。
こんな風につらつら説明してみてぇもんだと思った。
そんな折、今年の初めに「令和ロマンの娯楽がたり」の放送があり、見た。
そこで「考察」についての話題が出た。
「考察という言葉がかっこよすぎる」という言葉に笑いながら、「確かにそうだ」と思った。
考察は答えじゃない、ただの予想。考えてみれば、別に正解でもない予想なのに、なぜあれほど輝いて見えていたのだろう。
自分の考察がズバリ当たったらかっこいいしすごいし一目置かれる、わたしはそういう存在になりたかっただけだと思った。
そして、そんな自分をつまらないと思った。結局かっこつけたいだけだったのかよ、と思った。
「作品を見て、考察する熱量で何か別の作品を作ることもできるのではないか」というような話もあった。
「そうだ」と、わたしは思い出した。
昔、絵を描くことが好きだった。好きなキャラクターを描いたり、いろんな絵に感化されて自分のオリジナルキャラクターを模索してみたり、名前を考えたり、妄想の中でストーリーにすることも好きだった。
本を読むことも好きだった。物語を読んでいるときは、「きっとこんな気持ちだろうな」と想像し、その気持ちに浸る感覚が好きだった。
それで満足していたし、月日が経ってから時折思い出して、再解釈をしてみることも楽しかった。
元々作品を鑑賞したときに、論理的に考察するような人間ではなかった。
わたしは考察なんて得意じゃない。才能もない。多分好きでもない。
なのに一生懸命しようとしていた。
自分が得意だったのは考察じゃなくて、自分なりに噛み砕いて自分なりの解釈をして、時には自分の形に作り変えて楽しむことだったじゃないか。
そっちの方が自分にとっては何倍も楽しくてキラキラしていたじゃないか。
別に好きな気持ちは自分の思うままにしとけばいいんだよ。
説明しようとしなくてもいい、考察しようとしなくてもいい。
その気持ちを持ったまま、自分の心の中で転がしておけばいい。
そういう楽しみ方が自分にとっては心地いいし、そのままでよかったんだなあって、今はとても思います。
自分にとって心地のいい味わい方をするのが、自分の心にとっていちばん豊かで大切だなと思いました。
「考察の鬼」であるくるまさん、わたしはあなたの番組がきっかけで、考察を諦めて本来の自分らしい楽しみ方を思い出すことができました。
わたしの「考察」を終わらせてくれてありがとう。
