短編_雪っこ、という酒について
…カラン。
今夜は、ある酒の話をしよう。
名は『雪っこ』。
岩手の蔵が醸す、冬限定の濁り酒だ。
雪のように白く、甘く、
それでいて喉を焼く二十度の熱を持つ。
これは、その酒と、
ある料理人が遺した「消えない足跡」の物語だ。
1. 黄金の聖域
彼がまだ、
駆け出しのエンジニアだった頃の話だ。
慣れない設計業務に追われ、
数字と図面の間で息を詰めていた
若い彼にとって、月に一度の給料日は、
ただの贅沢以上の意味を持っていた。
決まって給料を手に通ったのは、
小さな、しかし凛とした佇まいの居酒屋だ。
元料亭の職人だったという小柄な大将が、
一人で切り盛りしていた。
「いらっしゃい。今日も一日、お疲れさん」
大将は無類の酒好きだった。
休みの日になれば自ら各地の酒蔵へと足を運び、納得のいく一雫を探し歩く。
だからこそ、その小さな店には常に、
他ではお目にかかれないような素晴らしい酒が
並んでいた。
「とっておきだよ」
大将が、白地に赤いラインの入った
アルミ缶を恭しく取り出す。
岩手の酔仙酒造が造る、
活性原酒『雪っこ』だ。
大将はそれを、
あえて大きな陶器の器へと移し替える。
「これはね、私が蔵まで押しかけて、
無理を言って分けてもらったものなんだ。
震災ですべてを流され、
絶望の淵に立たされた蔵が、
ファンの切なる声と職人の矜持で蘇らせた
『奇跡の白』。
このとろりとした重み、生きた酵母の呼吸……
これほど力強く、優しい酒は他にないよ」
器に満ちた白濁は、
まるで生まれたての冬そのものだった。
一口啜れば、
米の濃密な甘みが膨らみ、
直後に二十度のアルコールが
胸の奥を熱く焦がす。
その熱に、
若かった彼の孤独は静かに溶かされていった。
2. 痩せゆく背中
数年が過ぎ、
彼も中堅と呼ばれるようになった頃、
久しぶりにその暖簾をくぐった。
店の調理場に立つ大将の背中は薄く、
記憶の奥の姿とは少し違っていた。
言いようもない危うさが、
感じられた気がした…
聞けば、
しばらく前に体調を崩して救急車で運ばれ、
店を閉めていた時期があったのだという。
その痩せた肩には、病魔という、
逃れようのない静かな恐怖の片鱗が
僅かに滲んでいた。
「大将、無理はしなさんなよ」
「……ああ。体は少しガタが来てるが、
包丁だけは言うことを聞いてくれる。
それよりお客さん、
今年の雪っこは例年以上にいい出来だよ。
蔵の人たちの執念が、味に乗ってるんだ」
そう言って笑った大将の横顔が、
彼がみた最後の大将の姿だった。
ほどなくして、
店は看板を下ろした。
それ以来、
彼はその場所を避けるようにして生きてきた。
3. 侵食
それからさらに月日が流れ、
彼はふとした導きで、
かつてその店があった場所を訪れた。
外観こそ変わっていないが、
居抜きで営業しているその店の中身は、
完全に別のものに成り果てていた。
品書きには
どこにでもある冷凍食品の名前が並び、
酒もまた、選ぶ悦びのない大衆酒ばかり。
悪意はないが、そこにはかつての大将が命を削って込めた「敬意」という色はない。
かつての静謐さは消え、
ただ時間が無為に過ぎていく。
彼は店に入ったことを瞬時に後悔し、
早々に立ち去ろうと決めた。
「……日本酒を、『冷や』で」
せめて一杯だけ、と頼んだのは、
安っぽいガラスのコップに注がれた
無色透明の酒だ。
しかし。
店主が雑に置いたその酒が、
唇に触れる直前。
視覚が、
不意に
真っ白に染まる。
鼻腔を突き抜けるのは、
あの大将が愛した芳醇な米の香り。
喉を焼く暴力的な熱、
舌に絡みつく濃厚な甘み――。
「なっ……」
驚いて手元を見れば、
そこにあるのは相変わらず透明な酒だ。
だが、
飲み込むたびに、
重たい白濁が身体を満たしていく。
ふと、飲み干した後のコップの底を見た。
そこには、
透明なはずの安酒にはあり得ない、
濃厚な「白い雫」が一滴だけ、
べっとりとこびり付いていた。
それはまるで、
大将が一生をかけて磨き上げた信念が、
建物の隙間に、
雪のようにしんしんと降り積もるようだった。
彼は他の肴には一切手をつけず、
その一杯の「奇跡」だけを飲み干し、
二度と戻らぬ決意で店を後にした。
4. 溶けゆく境界
店の前を通るたびに、
彼はかつての大将の店を思い出し、
そっと手を合わせる。
今の店主には見えない、
自分だけが知る聖域への合掌だ。
今、彼は自宅で静かに、
瓶入りの『雪っこ』を傾けている。
大将を真似て、陶器の器を用意した。
注げば部屋の中に、
あの夜の湿った冬の匂いが立ち込める。
最後の一口を飲み干した時、
ふと、耳元で懐かしい声がした気がした。
「……お味、どうでしたかな」
振り返れば、そこには誰もいない。
だが、器を握る指先は、
雪に触れたように異常に冷たくなっていた。
窓の外を見れば、
今夜この街には雪など降るはずがないのに、
外はしんしんと、
すべてを覆い隠すような
真っ白な世界に変わっている。
彼は、静かに器を置いた。
コトリ。
それは、
あの日の大将の所作と、
寸分違わぬ音だった。
