[266]任天堂を考える【短期集中連載第4回・完結編】岩田聡~すべての人をゲームで笑顔にした経営者と開発者の奇跡の融合~
「私は生まれつきの経営者ではありません。ゲームクリエイターです」
これは任天堂の社長に就任した際に、岩田聡 (Satoru Iwata) が語った言葉です。
プログラマーから社長へ。そして世界中に「ゲーム人口の拡大」という革命をもたらした岩田聡の物語は、ゲーム史上もっとも感動的な物語の一つです。
天才プログラマーの誕生
岩田聡は $${1959}$$ 年、北海道札幌市に生まれました。
高校生のころから電子機器に夢中になり、手作りの電卓をクラスメートに売ったというエピソードが残っています。
$${1982}$$ 年に東京工業大学情報工学科を卒業後、ゲーム開発会社の HAL 研究所に入社しました。HAL 研究所は当時、任天堂と密接な関係を持つゲーム会社でした。
HAL 研究所での岩田聡のプログラマーとしての才能は、突出していました。
不可能を可能にしたプログラマー
岩田聡の伝説的なエピソードとして語り継がれているのが、「マザー 2 (MOTHER 2 ギーグの逆襲)」の開発救済です。
糸井重里 (Shigesato Itoi) が手がけたこの RPG は、開発が難航し、「このままでは完成まで $${5}$$ 年はかかる」と言われていました。
そこに岩田聡が加わりました。
岩田聡はプログラムを全て解析し、わずか数ヶ月で開発を立て直しました。
「$${5}$$ 年かかると言われたものを、$${1}$$ 年で終わらせましょう。$${1}$$ 年でできなければ、素直に $${5}$$ 年かけましょう」
この岩田聡の言葉と仕事ぶりは、ゲーム業界に伝説として残っています。
また、スーパーファミコン版「星のカービィ スーパーデラックス」では、ゲームの全データを限られた ROM の容量に収めるために、岩田聡が圧縮技術の限界に挑んだことでも知られています。
HAL 研究所の社長として
$${1993}$$ 年、経営難に陥っていた HAL 研究所の社長に、わずか $${33}$$ 歳で就任しました。
岩田聡はプログラマーでありながら、経営者としての才覚も持ち合わせていました。徹底したコスト管理と、社員との信頼関係の構築により、HAL 研究所を経営危機から救い出しました。
この経験が、後の任天堂での経営に大きく活かされることになりました。
任天堂社長への抜擢
$${2000}$$ 年、岩田聡は任天堂の経営企画室長に就任しました。そして $${2002}$$ 年、山内溥の後継者として、任天堂の代表取締役社長に就任しました。
$${40}$$ 代の若さで、しかも社外から招かれての就任です。ゲーム業界のみならず、経済界でも大きな注目を集めました。
就任時に岩田聡が語った言葉は、今でも多くの人の心に刻まれています。
「私の名刺には『社長』と書かれています。しかし、頭の中には『ゲームクリエイター』と書かれています。そして、心の中には『ゲーマー』と書かれています」
ゲーム人口の拡大という革命
$${2002}$$ 年当時、任天堂はゲームキューブの販売不振により、プレイステーション 2 に大きく水をあけられていました。
岩田聡が打ち出したのは、「ゲームをしない人をゲームに引き込む」という、業界の常識を覆すコンセプトでした。SONY のプレイステーション 2 は、当時はまだそれほど普及していなかった DVD 再生機として購入する人も多かったように、ゲームファン以外への戦略が動き出した瞬間でもありました。
それまでのゲーム業界は「既存のゲームファンに、より高性能なゲームを届ける」という方向で競争していました。岩田聡はこの競争から降り、まったく異なる方向へと舵を切りました。
「ゲームの人口そのものを増やそう」
この発想から生まれたのが、ニンテンドー DS と Wii です。
ニンテンドー DS の誕生
$${2004}$$ 年に発売されたニンテンドー DS は、$${2}$$ つの画面とタッチスクリーン、そしてマイクを備えた携帯ゲーム機でした。
「脳を鍛える大人の DS トレーニング」は、従来のゲームをほとんどしてこなかった中高年層を取り込み、社会現象となりました。
DS シリーズは世界累計で $${1}$$ 億 $${5000}$$ 万台以上を販売しました。
この成功は、「ゲームは若者のもの」という常識を完全に覆しました。
Wii とスポーツの融合
$${2006}$$ 年に発売された Wii は、「リモコン型コントローラーを振って操作する」という革新的なコンセプトを持つ家庭用ゲーム機でした。
「Wii スポーツ」は、高齢者施設でお年寄りがボウリングを楽しむ映像が世界中で話題となり、「ゲームは子どものもの」という固定観念を打ち砕きました。
Wii は世界で $${1}$$ 億台以上を販売する大成功を収め、任天堂を業界トップの地位に返り咲かせました。
社長自ら謝罪という決断
$${2011}$$ 年、ニンテンドー 3DS の販売が想定を大きく下回りました。
このとき岩田聡が取った行動は、当時の経済界では異例のものでした。
業績悪化の責任を取るとして、岩田聡は役員報酬を自ら $${50\%}$$ 削減したのです。さらに、社員のリストラは一切行わないと明言しました。
「会社の業績が悪いときに、社員を解雇するのは経営者の責任放棄だと思っています。まず経営者が責任を取るべきです」
この姿勢は、日本のみならず世界中のビジネスパーソンから高い評価を得ました。
「直接聞いてください」という文化
岩田聡が任天堂在任中に残した文化の一つが、「社長が訊く」というインタビュー企画です。
これは岩田聡が自らゲームの開発者たちにインタビューし、その過程や苦労をファンに向けて発信するというものでした。
普通の経営者であれば、開発の現場には関与せず、数字だけを見ることが多いでしょう。しかし岩田聡は、自分がプログラマーであったからこそ、開発者の言葉を誰よりも深く理解し、伝えることができました。
この企画は世界中のゲームファンに愛され、開発者へのリスペクトを根付かせる文化を生み出しました。
惜しまれた早すぎる死
$${2015}$$ 年 $${7}$$ 月、岩田聡は胆管腫瘍のため、$${55}$$ 歳という若さでその生涯を閉じました。
世界中のゲームファン、開発者、そして経済界から、無数の追悼の言葉が寄せられました。
任天堂の株価は翌日、一時的に急落しました。それほどまでに、岩田聡という存在の大きさが市場にも認識されていたのです。
宮本茂は訃報を受けて、「岩田さんは誰よりもゲームを愛していた人だった」と語ったとされています。
岩田聡が残した言葉
岩田聡が残した言葉の中で、もっとも広く知られているものがあります。
「On my business card, I am a corporate president. In my mind, I am a game developer. But in my heart, I am a gamer. (私の名刺には社長と書かれています。頭の中ではゲームクリエイター。でも、心の中ではゲーマーです。)」
この言葉は、岩田聡という人間の本質を、完璧に表しています。
経営者としての才覚と、プログラマーとしての実力と、ゲームを愛する純粋な心。これら $${3}$$ つをすべて持ち合わせた人物は、ゲームの歴史上、岩田聡の他にはいないかもしれません。
「すべての人をゲームで笑顔にする」という夢は、岩田聡がいなくなった後も、任天堂の DNAの中に生き続けています。
そして今日も、世界のどこかで誰かがスイッチを手に取り、岩田聡が夢見た「笑顔」を感じているのです。
