聖天使オパールは闇落ちしました 3
あの日、聖天使の彩と秘密の約束をした時から、拓生と彼女の距離は縮まった。
今まで挨拶さえしなかった仲だったのに、休み時間に取り留めのない会話をするほど近しくなった。
松居辺りは勘違いしているだろう。拓生は勘違いしない。
「そうだ! 次の受業の古文だけど、音羽君、宿題で難しい所あったよね?」
「しゅくだい?」
「え」と彩が連結した机の先で停止した。
「まさか……やってないの?」
「虹野さん! さては君は名探偵だね……ふふふ流石だよ虹野君、また合おう」
「こらっ!」
ジョークを交えると、彩は一喝し、眼鏡のズレを人差し指でくいっと直した。
「どうやら私は音羽君について、少し考え違いをしていたようね」
「僕を侮ったな」
「もっと真面目な人かと思っていました」
彩の眉間に皺が入り、唇が尖る。
「宿題は、家で予習復習出来ない人のために、敢えて先生が下さる物なの、つまり、強制的に勉強をさせるものなの、やらないという選択肢はないの」
「人間は常にフリーダムな存在なんだよ、キリスト様が言っていた」
「こらっ」と再び怒られ「もうっ」と横を向かれてしまった。
「……でも、じゃあどうするの?」
聖天使の慈愛は深い。ここまでのダメっぷりを眼前にしても、見捨てられることはない。
「何が?」感心しながら問うと、彩の眼鏡の奥で長い睫が陰る。
「だって、今日は確か音羽君の列でしょ? 指されるの」
「あ」拓生は今更思い出し、青ざめた。
古文の受業では、毎日当てられる列が変わる。その点についての古文教師・松浦先生の記憶力は確かで、前回は確かに拓生の横の列が当てられた。
「あわわわ」
さすがに慌てる。一日に二度も授業中に恥をかきたくない。劣等生のプライドさえも痛む。
「はあ」
彩は離れていても熱量が判る程の、盛大なため息をついた。
「わかりました、今からやろう、何とか間に合うと思うの」
彼女は振り返り、何代か前のOB寄贈の簡素な時計で、時刻を確認した。
「古文の教科書、出して」
言われたとおり出すと、彼女は綺麗な字で『古文』と書かれた大学ノートを取り出していた。
パラパラ捲る。
拓生は身を乗り出し、それを覗こうとしたが、はっと彩がノートを立てて内容を隠した。
「……何?」
「音羽君……今、私のノートを写そうとか、良からぬ事を考えたよね?」
「え! 今からそうするんじゃないの?」
「こら!」いたずらした子供のように、また叱られる。
「宿題は自力でする物なの! ガチたいまん、私はただお手伝いをするだけ」
『真面目っ子』とか『堅物』とか『お下げ魔神』等の神経を逆撫でするだろう単語を舌が選ぼうとしたが、すんでで抑える。
今彼女の機嫌を損ね見捨てられたら、またくすくす笑いの的にされてしまう。
拓生は桜井のように毛並みの良いエリートではない。が、野良犬には野良犬のプライド、劣等生には劣等生なりのプライドがあるのだ。
「判りました虹野さん、ご協力感謝します、このご恩は決して忘れません、明日の給食に出るプリンを進呈します」
「……下手に出ても答えは教えないからね……でもプリンはもらいます」
消沈した拓生は、やや尖る彩の視線に「トイレ」と告げて立ち上がった。さすがに止められはしなかったが、まだ油断無くノートを胸に抱いている。
―─なんつー信頼性のなさ。
肩を落として廊下に出た拓生だったが、すぐに呼び止められる。
「おい! どう言うことだ!」
驚きに口の端を白くした松居が、追いかけてきたのだ。
「何が?」
何となく問われる内容は判っていたが、敢えて惚けて見せる。
「何が、じゃねーよ! 拓生、お前委員長と付き合いだしたのか? やっぱりこないだのアレは……」
「違うよ」
勝手に興奮していく松居のハイテンションを、拓生は一刀に切り捨てた。
「友達……ううん、それでもないな」
「はあ?」
松居は納得していないように眉を上げたが、これから古文の宿題が待っているので説明を省き、トイレに向かった。
虹野彩の接近。その理由を色恋に結びつけるほど拓生は図に乗っていない。
確かに秘密の共有、という『恋』への第一歩は果たしたのだが、だから彼女が気にかけてくれるようになった、と単純に解答欄に書くつもりはなかった。
―─つまり、彼女は監視しているんだ。
それが適切で合理的な模範解答だ。
彩は自分が聖天使である、ということを拓生に知られた。そしてそれの秘匿を約束をもさせた。
だが不安なのだ。
いつか聖ぴっこんを使わねばならない時が来るかも、という疑惑は拭えないでいる。
「まあ、今まで知らなかった僕を、いきなり信じてくれないさ」
だから拓生は不快にならなかった。むしろ、彼女と言葉を交わすのが楽しくなってきている。
その点、音羽拓生もただの男子中学生。年頃の男でしかない。
トイレから出ると、呆れたことに松居はしつこく待っていた。
「なあ、本当に付き合っていないの?」
「いないってば」
わざとぞんざいな口調で松居の疑念を払う拓生だったが、それを受けて彼は大きく舌打ちした。
「なんだそりゃ、お前根性ないなー」
廊下の真ん中で立ち止まる。松居の発言の意味が分からない。
「俺だったら……」
松居はまた自分を抱いてくねくねし出した。
「こうやって、こう!」
空気に女性のバストとヒップラインを手で描き、やおら床に倒れ込むとぴこぴこ腰を振り出した。
「……何考えているんだ? お前」
拓生がドン引きすると、生徒達が普通に通っている休み時間の廊下だというのに、松居が声を張り上げた。
「女の子の『イヤ』は、嫌じゃないんだ! むしろオケッ」
「は?」
「信頼できる聖なる電子書籍で知ったんだけど……女の子は男にちょっとムリヤリっぽく襲われても、なんだかんだで受け入れていくもんなんだって、そして後はずるずると言いなりに、そして最後にはドレイ」
「すっごいエロマンガ知識だよね? それ」
拓生は野良犬の羞恥心で辺りを探った。
案の定、通過していく女子生徒達の目は冷ややかだ。汚物を見るときでも、こんなに瞳孔を縮めないだろう。
「とにかく、お前は千載一遇のチャンスをフイにする腰抜けだ」
かちん、と来た拓生はエア・行為、続行中の松居を見捨てて教室に戻った。
「待ってたよ」
その姿を認めた彩がにっこりと微笑んでくれる。
「古文、私も沢山ヒント出すからすぐに終わらせようね……ん? 何か廊下が騒がしいね? ひめい? どうしたの」
拓生は悲しそうに手を振った。
「進化出来なかったケダモノが遂に一線を越えた惨状だから、見たら穢れるよ、むしろアレは忘れるんだ、虹野さん」
「え、ええ」
その後、他人に甘い彩がヒントを出し過ぎてくれたので、ほとんど拓生は彼女の解答を丸写しにし、すぐに古文の宿題は消えて無くなった。
松居の姿も、次の時間教室から消えて無くなっていた。
所詮、他人だ。
オレンジの光が教室の窓から斜めに入り込んでいた。
その日の終わり、拓生は放課後の喧噪の中、荷物を手早くまとめる。
運動部入部者達はジャージ姿になり、今日の抱負と目標を仲間と決め合っているが、帰宅部には関係ない。
音羽拓生が学校終了と共に帰宅するようになったのは、二年生の中頃だ。
それまでは陸上部に在籍し、短距離走選手としてそれなりに期待されていた。
結局、退部届を出したのは、夕暮れに走るのがバカらしくなったからだ。
毎日毎日同じコースをひたすら走り、ひたすら柔軟を繰り返し、ほんの少しばかりタイムを縮める。そして、誰もいない家に帰る。
暗い家では疲労にがっくりするだけだ。
こんな詰まらないことはない。
今もその思いは消えていないから、クラスの陸上部員の運動着姿にも郷愁など抱かず、鞄のヒモを肩にかけた。
―─そう言えば松居、結局職員室から帰ってこなかったな。
部活動とは全く違う事柄に心を痛めながら教室を出て、正門へと急ぐ。
何もないのなら迅速に帰る。イケてない中学生とはそうあるべきだ。
「あれっ」だが、拓生は驚きを声を出していた。
正門の影に埋没するように佇む、見知った女子生徒を見出したのだ。
彩だ。
―─誰かと待ち合わせかな?
顔を伏せ固まっている姿は迷子の子供を思わせ、いじりたくなる程、いじらしい。
特に歩調を変えず近寄ると、彩の前髪が勢いよく跳ねた。
「音羽君、待ってにゃ……実は、お話がにゃって」
拓生はどきりとした。
「やっぱり信用できないから、聖ぴっこんやっとくね」
とか言われるかもと思った……のではない。
彩がずっと待っていてくれた、という事実に、どういう訳か心臓がどきどきと主張しだしたのだ。
猫っぽく台詞を噛む所も花丸だ。
少年と少女の並んだ影が道路を滑っていく。
傾いた、目を痛める朱色の光の中、拓生はそっと傍らを見る。
固い三つ編みの女の子が歩調を合わせ、俯き加減で歩いていた。
傍目には仲の良い中学生の男の子と女の子が、一緒に帰宅するように写るだろう。
ただ、二人は学校から数分、全くの無言だ。
拓生には彩に限らず女の子、と共有する話題など無い。
ゲームやマンガ、萌えアニメの話しをしてしまったら元の木阿弥だ。
心づく。
―─あれ? 僕、虹野さんに嫌われたくない、て思っている?
