孤立と孤独は異なる。

孤立とは、望まない一人ぼっちで他の人間との繋がりがないこと。

一方、孤独とは望むと望まないとに関わらず、他の人間との繋がりがないと感じられる状態であると、私は理解している。

望まない孤立は、人を追い詰める。不安定にさせる。望まない孤独とはつまり、孤立のことである。望んだ孤独もある。誰とも話をしたくないと思うあの瞬間は孤独だが孤立ではない。望んだ孤独はときにエネルギーを再充填するのに必要不可欠であり、次に移行する準備期間と位置付けることだってある。一方、孤立は常に多くの人にとって悪いストレスになる。エネルギーを奪う。

以降、孤立について書く。

あらためて、孤立というのは他の人間との繋がりがない状態である。孤立は常にネガティブに作用する。孤立にさいなまれると人は不安定になる。孤立している現実を否定したり、孤立にポジティブな意味を与え合理化したり、孤立の中で新たな世界を作ってその世界へ逃避したりする。いずれも孤立に向き合うことを避ける防衛機制である。孤立は自尊心を傷つける。私が孤立するはずがない。私は多くの人間に受け入れられるべき人間だ。受け入れられ、歓迎されるはずだ。今はそうでなかったとしても、もうまもなくすれば受け入れてもらえるはずだ。しかし、多くの場合、その願望むなしく孤立は一向に解消されない。そして孤立していることを認めざるを得ない瞬間が訪れる。気持ちはますます不安定化する。

誰からも必要とされていないという感覚をリアルに想像してほしい。それは、あらゆる人との繋がりから外れた状態にあることを自覚することとなる。あがき、もがき、必要とされるために努力をするのは非常に良い。成長の起爆剤になる。ただ、成長するためには常に他人に認められなければならないという不合理な信念を強化し続けることとなる。努力し、知恵をつけ、だれからも有能だと認めてもらえる人には2つのパターンがある。1つは、それを追求するのが楽しくて、もっともっと突き詰めることを欲するパターンAと、もう一つは人から不要と言われる不安と恐怖を払拭するために常に努力し続け、Xデイに備え続けなければいられないパターンBがある。そして、多くの人はパターンBを辿る。パターンAは経営者であり、パターンBは労働者であると考察するのはあまりにも乱暴だろうか。

「孤立化させる」という言葉がある。これは学校・教育機関においては「いじめ」と呼ばれ、労働の場面においては「パワーハラスメント」と呼ばれる。孤立は学ぶ意欲を削ぎ、働く意欲を損なう。このような認識が社会に広く受け入れられ、浸透している証左と言える。しかし、いじめもなくならないし、行政へのパワーハラスメントの相談件数も右肩上がりである。これだけ考え方が知れ渡った今もなお、減退する気配がない。なぜ人々はこのような行為に及ぶのか。人間はもともと誰かを孤立化させて喜ぶような意地悪な生き物なのだろうか。

人が3人集まれば意見は3通りに分かれる。3人ともが賛成、3人ともが反対で意見が一致したとしても、それは総論賛成・総論反対で意見が一致したに過ぎず、議論が各論にまで及べば少しずつ進みたい方向性の角度にズレがあることが浮き彫りになる。極めて自然の摂理と言える。一人の人間の中でさえ、批判的な私、養育的な私、冷静沈着な私、子どものように自由な私、空気を読む私など様々存在するのだから、他人と考えが100%一致するなどありえない。本当にそのようなことが起きるとしたら、催眠状態か依存関係もしくはどちらかが嘘をついている。意見は一致しないのが普通だ。

そこで必要なのがルールだ。国家レベルでは憲法や法律、宗教国家ではそれが教義や聖典、聖書となるだろう。つまり、孤立化させることは違法である、神の教えに反することであるとの認識を共有する。すると、孤立化はしてはならないことであることが明確になる。なぜなら、憲法、法律、教義、聖典、聖書にそう書かれているからということで単純明快だ。考える必要もない。答えがそこにあるのだ。

しかし、それでよいのかとも思う。信賞必罰は秩序維持になくてはならない。ダメなものはダメ、ダメなことをしたら痛い目を見る。だからしない。そこには主体性がない。なぜダメなのかを考えない。思考停止である。

まずは自分で考える。なぜ孤立は生じるのか。なぜ孤立化させることはダメなのか。あなたはどう説明するか。

私は明確な答えを持っている。孤立していい人間など一人もいないから、孤立させてはならない。これである。孤立している人がいるようなら積極的にその人に話しかけたい。これは私の倫理観と言える。道徳心である。そしてそのような行為をするだけで私はここにいる価値があると自信を持つことができ、気持ちが安定する。一人だけ話の輪に入っていない人がいれば、その方を孤立したままにさせない。その方にも話題になっている写真を見せて、一緒に驚いてもらいたい。その人だけがそれを知らないという状態であればそれもまた情報的に孤立している。その人にも情報を伝えたい。ただ、言うまでもなくルール違反は明確なNGであるため、ルール違反にならない範囲で行うということは付言しておきたい。機密情報や個人情報を不必要に広めることと孤立させないこととは別の話だ。つまり、多くの場合、人々は法律と倫理・道徳をごちゃまぜにしている。それはあなたの倫理・道徳に基づいて認められないと意見したのか、それとも、法律に基づいて違法であるから認められないと意見したのか、これの区別がつかなくなることを「感情的になる」と言う。自分の意見なのか公的記述に基づいた判断なのかを見失うと、人は冷静さを失って見える。

さて、あなたは孤立についてどう感じているだろうか。
昨今、様々なところでカスタマーハラスメントしかりメンタルヘルスしかり多様性、多文化、共生社会などキーワードを挙げれば枚挙にいとまがないが、今あらためてもっと身近な事象に目を向けてほしい。

あなたの周りに孤立している人はいないか。

大げさな言葉、難しい言葉、トレンドワード、外国語、新しいキーワードなど新たな「知」が溢れるこの社会にあって、

優しく声をかけ、人の輪の中にその人のペースで入る自由を与える気配り

まずこれを大切にできる人がもっと増えたらと思う。




最後までお読み頂きありがとうございました。

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ジノズjinoz|職場環境最適化ファシリテーター もっと良い記事を書くモチベーションになります。どうぞよろしくお願いいたします。