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短編小説『萌黄色の部屋』


『萌黄色の部屋』

 三十を過ぎてからはじめてマッサージ店に入った。そしてマッサージに魅了され、感動に打ち震えた。それは私の担当になったスタッフの若い女性の接客が丁寧で親切であっただけではなく、マッサージの技術も素晴らしかったからである。
 しかし、店に通い始めて半年後のある日、その若い女性は店を辞めていて、代わりに若い男性が私の担当になった。


 分厚いレンズの眼鏡をかけ、異様に痩せた体、顔のところどころにニキビができている童貞風の男である。歳は二十五六くらいだ。疊指と名乗るその男はのっけから、「み、宮城さん…どのへんがおつら、おつらいでしょうかしら?」などと妙にオドオドしていて、こっちが心配になるほどの不慣れな接客態度で話しかけてきた。
 それから、カーテンで仕切られた半個室のベッドにうつ伏せになっている私の体を猫の頭でも撫でるような手つきで触れてくる。


 施術開始二三分で気持ち悪いと思った。指の先まで毛深い疊指の手のひらから伝わる生ぬるい体温と不快な感触が私の気分を害し、今すぐに帰りたくなったと同時に、私は疊指というか、そもそも男に体を触られることに極度の抵抗があるということを改めて認識した。それはたとえ仲の良い男友達であったとしても変わらない。一緒にいて、ふとしたときに肩を組まれたり、腕が触れたりしたときは瞬間的に気持ち悪さを感じ、ひどいときには相手を殴りたくなるほどの怒りを覚えるのだ。一方で、大概の女性であればそのような拒絶はしない。子どもの時分からそうである。たとえば、背中を掻いてもらう、肩を揉んでもらう、手を繋ぐなどは必ず母か祖母だった。父や祖父にそういうことをしてもらった記憶はなく、してほしいと思ったことも一度もない。


 疊指のマッサージは正直言って、下手だった。全然気持ちよくない。しかも、下手なくせに時折愚にもつかぬことを小声で遠慮がちに話しかけてくるのがうっとうしかった。童貞のくせに髪をセンター分けにし、定期的に眉毛サロンにでも通っているのか、形を整えた眉も気に入らない。もっとも、童貞だと決めつけるのは些か失礼かと途中で思ったが、疊指の雰囲気と挙動が童貞らしさを物語っており、こんな愚鈍が童貞でないのならば、この世界なぞ怪異な地獄であると言っても差し支えあるまい。こいつと深い関係を持つ一般女性はよほどの物好きか奇人なのだろう。今すぐに疊指の眼鏡を叩き割り、両腕をへし折ってやりたい。金輪際、マッサージができないようにしてやるのだ。この業界を去れ。そしてその足でソープランドにでもいってこい。童貞なんだから。などと腹の中で悪罵するほど、私は不愉快だったのである。もはや激しい神経衰弱になる寸前だった私は歯を食いしばり、疊指の不快なマッサージを六十分間我慢した。これではまるで「全身もみほぐし」ではなくて「全身もみほぐ死」である。


 そのようなことがあり、私はマッサージ店と一時距離を置いていたのだが、ある日、歓楽街の入口付近に新しくオープンしていた小綺麗な外観のマッサージ店が目にとまり、ちょうど体の節々が痛かったので、入ってみようかしらという気分になった。
 無論、事前に店のホームページを閲覧して、スタッフに男がいないことを確認した。二十代から三十代くらいまでの女性スタッフしか在籍していないらしい。雑居ビルの二階にあるその店に入ると、二十一二の可愛らしい小娘風の女性が出てきた。初対面なのに親しみやすい無邪気な笑みで対応される。
 受付でアンケート用紙に必要事項を記入し、「九十分の全身もみほぐし」にする旨をその小娘に伝えると、「はい。かしこまりました。では、少々お待ちくださいね」と言われ、小娘は店の奥に消えた。



 二分後、目の前に現れたのはさっきの小娘ではなくて、おみくじからくり人形みたいな五十半ばの女だった。女は三白眼の目を光らせ、赤黒い歯茎が見える口を開いて、「では、こちらへどんぞー」と言った。女性とはいえ、何となく嫌だな。さっき、ホームページで確認したときにはこのスタッフはいなかったよな。おかしいな。と思いつつ、おとなしく女についていくと、店の奥へ伸びる狭い通路の両側に大小の個室が並んでいて、そのうちの一部屋に案内された。足湯をされてから、適度な硬さのマットレスにうつ伏せになる。扉を閉められ、室内の照明を絞られた。背中にココア色のブランケットをかけられる。ぷーんと石鹸のいい匂いがした。天井から鳥のさえずりと草木のさざめきと水の流れる音が聞こえていた。


 女は阿子島と名乗り、くしゃみをしてからすぐにマッサージを始めた。その時点で私は些か不愉快だった。マスクを着用していないので、くしゃみをするときは口を手で押さえてほしかったのだが、どうやら私の後頭部にむけてくしゃみをしたらしい。
 だが、私は黙っていた。なぜなら、阿子島さんのマッサージが思いのほか気持ちよかったからである。手の力加減が丁度よく、揉み方がリズミカルであり、押してほしい箇所を的確に押してくれる高品質な施術に感服し、疲れていた私はウトウトしていたが何とか堪えていた。というのも、決して安くはない料金を払っておきながら、マッサージ中に居眠りをしたら何となくもったいない気がするし、そもそも私は今、某新人文学賞に提出するための中編小説を書いていて、それが中途で止まっており、その続きを書くためにマッサージを受けながら小説の構想を練るつもりでいたからである。街の喧騒を遮断し、静かな空間のリラックス状態で小説のアイディアをあれこれ考えるのだ。などということを思っていた矢先、通路を挟んで真向かいの個室から、「げほっげほっげほっ、おえッ」という中年男性と思しき男の咳が聞こえてきて、それがしばらく続いた。
 女性スタッフの「お客様、大丈夫ですか?」という問いかけを無視し、なおも、「げほっげほっげほっ、おえッ、おえッ」と咳をしながらえずいている男の声がうるさくて、私は段々苛々してきた。
 同時に、あの男はマスクを着用しているのだろうか。あの忌々しい新型コロナウイルス感染症を経験してきた私たちにとって、個室の至近距離での咳は非礼な行為であるに相違ない。と思い、男を接客している女性スタッフのことが心配になり、気の毒に感じて心が暗くなっていると、今度は右隣の個室に入室したらしい客の中年男性と女性スタッフの会話がはっきりと聞こえてきた。しかも、その女性スタッフはさっき受付にいたあの小娘である。
「先週は愛知にいってて、今週は青森と山形と岩手を回る。来週は静岡なんだよ。とにかく仕事が忙しくてね。体が疲れちゃって大変なんだわ」
「そうなんですか!それは辛いですね。お疲れさまです。でも、お体には気をつけてくださいねっ!」「ありがとう。でも、こうして、カノンちゃんのところにくると、ぐっと癒されるなぁ。これがないと俺は生きていけないよ。マッサージもうまいし」「そんな、そんな。わたし、まだまだ未熟者ですから…でも、がんばって癒します」
「正直言うと、俺はカノンちゃんが一番好き。これまで色々なマッサージ店を回ったけれども、カノンちゃんが技術も性格も一番。本当だよ。だから、こうして毎週指名して来ているわけだし。カノンちゃんじゃなきゃ俺は指名なんかしないよ。他の女の子に浮気するつもりは一切ないからね!」
 などと、ここが風俗店かなんかだと勘違いしているような気色の悪い会話を繰り広げている男はずっと喋っている。一方的に野太い声で喋っている。



 神経に障る男の声が壁を通して聞こえてくるので耳を塞ぎたかった。マッサージに集中できない。せっかく阿子島さんが体を丁寧にほぐしてくれているのに、その効果があまり感じられないほど、私は周囲のやかましさに辟易していた。阿子島さんが私の足つぼを押してくる。指が肉の中に食い入るたびに快楽が走るが、それも束の間、足の裏を喜ばせるだけにすぎず、常に隣室から漏れ聞こえている「げほっげほっげほっ、おえッ、おえッ」という咳とえずきと「すごいね〜カノンちゃん、きもちいい…」などというもはや小娘といやらしいことをしているのではないかと疑うほどの科白を吐く声に堪えかねて気が変になりそうだった。数分後には奇病とかに取り憑かれそうである。半目になって顔を少し上げると、目の前には萌黄色の壁があった。ただし、部屋の照明を絞られているので、萌黄色に見えている壁の色は本当は青緑なのかもしれないし、草色とかなのかもしれない。この部屋に入ったとき、壁の色などまともに見ていなかったことに今更気づく。
 萌黄色の壁の向こうから異常なほど、「カノンちゃん、たのしいね、カノンちゃ〜ん」という野太い声が響いてくるので段々気味が悪くなり、阿子島さんのマッサージを中断して店を出ようかと思った。すると、それまでおとなしく黙々とマッサージをしていた阿子島さんが唐突に私の腕を掴み、それから流れるように敏捷な動きで私の右手を握ってから口の中でネチャネチャという奇怪な音を立てた。これはハンドマッサージの一環なのかと思い、されるがままになっていたが、いつまで経っても阿子島さんは握った手を離さない。しかも、ただ手を握るだけではなく、互いの指を絡めた恋人繋ぎをしてくるのだ。阿子島さんと指と手のひらが触れ合い、湿り気を帯びた不快な密着感が高まった状態になっているので、さすがにこれはおかしいと思い、首を捻じ向けて阿子島さんの顔を見ると、偽物の仏のような笑みを漏らしてこっちを凝視している。三途の川が朧げに見えた。たちまち周囲の音が遠のいていき、一瞬間、天井にきれいな青空が広がると、凄まじい勢いで四方の萌黄色の壁が私に迫ってきて、僅かな言葉を発する間もなく失神してその後は不明。


(了)

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