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お茶碗を叩き割る私の仕事


私はお茶碗を見ると、時々思い出すことがある。
それは、私が他人のお茶碗を、たくさん割っていたことがあるからだ。

"あなたの帰ってくるところはない"

と思いきりに。

*-*-*-*-*


私は20代のころ、1年間だけ、自分からは踏み込まない仕事をした。

それは、葬儀場だ。

明るい未来のある子どもたちとかかわる保育士をしていた私にとって、葬儀場は、先のない暗いイメージがあった。

友だちは、キラキラした夢を追いかけたり、好きな仕事を頑張りながらも楽しんでいたりしていた20代。
私は何でこんなところにいるんだろう。
就職してすぐは、友だちに葬儀場で働いてるなんて言えなかった。

でも、自分で決めたこと。
踏み込んだことを後戻りすることは、自分が許さなかった。


葬儀場で働くことになったのには理由がある。
でも、私の勘違いでもあった。

保育園を退職することを決めたとき、私より先に退職された元園長先生を通して声がかかった。

冠婚葬祭で、託児所を立ち上げるから、保育士を募集している。
託児所が立ち上がるまでは、冠婚葬祭で働いて、その後、託児所で働いてほしい。

私は保育園の立ち上げを、その元園長先生としていた経験もあった。
うまくいくかわからないが、一から園をつくっていくことに興味はあった。
結婚式場でも、アルバイトしていたため、不安はそこまで大きくなかった。

しばらくして、元園長先生は、
他の園で先生が一斉にやめて人手が足りないから来てほしい。
JRの改札の仕事も人がほしいって言ってる。
と、次々元園長先生の友だちからの情報が私に
届いた。
でも、私はタイミングを大事にしたかった。
最初に声のかかった、冠婚葬祭の託児所に決めた。

元園長先生は、連絡をとってくださり、
後日、私は面接をした。

はじめまして〜♪

とてもニコニコされた、明るい女性だった。
しかも、私が小さいころテレビで観ていた人だった。
喫茶店に入り、2人でお茶をしながらの面接。
いつも飲まないコーヒーを無理して頼んだ。
でも、面接といっても、ガチガチのではなかった。
私が保育士をしていたときの話や、これからよろしくお願いしますってくらい。
私は聞かれるがまま受け答えして、質問はしなかった。

そして、事務所で制服をもらい、仕事場に連れて行ってもらった。

着いてみると...

そこは葬儀場だった。

正直、帰りたかった。
冠婚葬祭といっても、結婚式場と思い込んでいたのだ。
でも、託児所ができるまでの辛抱だと思い、仕事内容を教えてもらった。

仕事内容は、
・祭壇の掃除と準備
・参列者のお茶だしと片付け
・お寺さんのお茶だしと片付け
・手を清めるおしぼりの準備と渡す担当
・ご家族が泊まった部屋の掃除(ベットメイキング、お風呂場も)
・葬儀中のお寺さんの椅子引き
・ご焼香の誘導
・出棺前の棺にお花を入れるサポート
・出棺時のお茶碗を割る
・お寺さんの部屋と会場の掃除

最初は怖かった。
時間やタイミングを見ながら、動かなければならないこと。
参列者の様子をみて、自分から声をかけなければならないこと。
お寺さんの前での動きは、作法を学んでいるかのようで、右手右足一緒に出そうになるくらいだった。
でも、上司の教え方がわかりやすく、度々背中を押し、挑戦させてくださったおかげで成長できた。

1か月で一人立ち。
それでも私のドキドキは止まらい。
毎回一緒に働く人が変わり、
故人さまや参列者の人や人数、宗派、
お寺さんも進行する人も違うため、
自分の動きが変わってくる。
私が失敗することで、会社へのクレームもあるだろう。
そんなプレッシャーもあった。
20歳のときの初めての仕事とは違う、自分の自信のなさと不安を感じた。

でも、
緊張感のある中、私は気持ちを持っていかれそうになることも度々あった。

故人さまの、何枚もの思い出の写真を並べた映像を、暗い中見ながらすすり泣く声を聞いたとき。
喪主さんやお孫さんが、泣きながら手紙を読んでいるとき。
故人さまが寝ている棺にお花を入れたり、蓋を閉めたり、石で釘を打ちながら泣き崩れる姿を見たとき。

私はもともと感情に弱く、心もっていかれることが多いため、そのときばかりは、耳を塞いでいた。
こんなに人の話を聞かなかったのは初めてだ。

また、あるときから、故人さまのお顔も見ないようにしていた。

職場に行って、最初にすることは祭壇の掃除だった。
そのとき、故人さまの写真を目にする。
最近はピースをしている写真も多く、とても元気の良いニコニコされている写真が多かった。
でも、棺で眠っている姿は違う。
死因も聞くこともある。
お顔が膨れて、写真とは別人の方もいる。
あまりにも違う姿をみると、心苦しく夢にも出てきていた。
だから、私は故人さまのお顔は、できるだけ見ないようにするようになった。

「しきびはお金の代わりになります。お足元にお入れください」

「菊は、お顔の周りにお入れください」

悲しむご家族と、故人さまとの最後のお別れをともにした。
棺を閉めたあと、合掌。

ご親族が棺をかつぎ、皆で霊柩車のある外へ。
私は、プーーーーッという大きなクラクションとともに、故人さまが使っていたお茶碗を、毎回地面に叩きつけて割っていた。

"あなたの帰るところはありません"

と。

とても辛い。
とても悲しい。
ほとんどの方が暗い顔をしていた。

でも、私はここで仕事ができて良かったと思うようになった。
それは、
自分から踏み込まなかった仕事だったため、
新しい知識と働き方を学ぶことができたからだ。

それだけではなく、
葬儀場の暗いイメージも変わった。
ロビーには、故人さまが刺繍した作品がたくさん飾られてあった日もあった。
野球の試合で着たユニフォームが飾られていた日もあった。
祭壇に赤や黄色、明るい花がいっぱい咲いていた日もあった。
女性の方々が、目を赤くしながらも、ニコニコしながら、故人さまの話をしている姿もあった。

そこで私は知った。
葬儀場は、故人さまの色でいっぱいの温かい場所でもあることを。
決して、悲しいだけの場所ではないことを。

託児所はなかなかできなかった。
それでも、上司の方が、丁寧に教えてくださる気持ちに応えたかった。
新しく覚えることに必死だけど、一緒に働く方の働きを見ながら、私も頑張ろうって気持ちになっていた。
葬儀場が暗い場所ではなく、故人さまの生きてきた人生を彩る温かい場所であることを知った。
たった1人の人生の最後の大切な場所で、働かせていただいている気持ちになった。

でも、
私は決めた。
託児所ができないのなら退職することを。
私のやりたいこととは違う。
ずっとここで自分の人生を無駄にしたくない。
人の人生を目の当たりにして、自分の人生を考えた。

1年で私は葬儀場を退職。
社長や課長に、退職することを惜しんでいただいた。
職場の中での協力関係がなかったものが、あなたのおかげで良くなったと。
そして託児所ができなくて申し訳ないとも。
でも、私の人生を考えてくださる方も何人もいた。
早く結婚した方がいい。
託児所はなかなかできないから、早く辞めて違う園で働いた方がいい。

私は前にも後ろにも、後悔なく、
たくさんの方に背中を押していただき退職できた。


そのとき、20代で葬儀場で働いている人は、私だけだった。
でも、20代でこんな経験ができ、貴重な1年だった。
自分で踏み込まないことだったからこそ、予想外の学びがたくさんあった。
そして、自分はどのような最後を迎えたいのか、考えるきっかけになった。

明るい未来を思い描きながら子どもたちとかかわるためにも、今を大事にしながら生きて、人生の自分色をつくっていくことの大切さを感じた。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
私は、以前から、声をかけてもらったことはチャンスと思い、断らないと決めています。
そのおかげで、元園長先生に声をかけていただき、知らない葬儀の世界へとチャレンジすることができました。
たった1年間ですが、葬儀場で働くことができたのは、教えてくださった上司と、ともに働いた方々のおかげです。その方々の仕事への姿勢から、私も真剣に葬儀の仕事と向き合うことができました。
その中で得たことは、私の人生を見直すきっかけにもなり、今では感謝しています。
葬儀場は故人さまを想い悲しみながらも、その人その人の人生を映し出す、温かい場所であることを、私は伝えたいです。

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