呪限蠢#39
「トメ、右だ! 岩の鼻を掠めるぞ!」 マストの上のマルコが叫ぶ。だが、激流に翻弄される巨船の舵は重い。 「くっ……戻らない……!」 トメが舵輪に引きずられそうになった瞬間、セバスチャンが音もなく彼女の隣に立ち、その痩せた体躯からは想像もつかない正確さで舵輪のスポークを蹴り飛ばした。 「力の方向を見ろ、トメ。歯車(ギア)と一緒だ。逆らうな、利用しろ」 工学者の計算に基づいた補助が、絶望的な旋回を可能にする。
直後、船首が岩礁に激突しそうになったその時、フェルナンドが欄干を蹴って、空中に身を躍らせた。 「ここは俺の『舞台』だぜ!」 彼は赤いマントを翻しながら、船首に備え付けられた旋回砲の台座に足をかけ、手にした刺突剣で、流れてくる巨木をテコの原理で弾き飛ばした。一歩間違えれば海へ叩き落とされる狂気の曲芸だが、彼のマタドールとしての均衡感覚がそれを成功させる。
「セバスチャン、次は左の岩棚だ! 撃ち抜いて進路を作れ!」 フェルナンドの叫びに、セバスチャンが即座に応える。 「言われるまでもない」 セバスチャンは揺れる甲板で、自作の狙撃銃を水平に構えた。放たれた弾丸は、航路を塞いでいた崩落寸前の岩の継ぎ目を正確に射抜き、落石を誘発させて逆に深い水路を切り拓いた。
二人の作った僅かな隙間を、船長ロドリーが逃さず突く。 「190人、一斉に綱を引け! カルロス、錨で船首を固定しろ!」 ロドリーの号令に、カルロスが岩の牙へ錨を叩き込み、サンフェリペ号を強引にターンさせる。
轟音と飛沫の中、セバスチャンの計算と、フェルナンドの度胸、そしてロドリーの統率が一つに溶け合い、巨船は「水の溝」を駆け抜けていった。
激流を抜け、外海へ。 だが、甲板に弛緩した空気はない。
セバスチャンは、硝煙で汚れた指先をものともせず、すぐさま銃の心臓部を分解し始めた。 「……三つ、足りないな」 「ああ。水平線の陽炎の向こう、まだ奴らが見守ってやがる」 フェルナンドが、血のついた手の甲で口元を拭いながら応える。彼は予備の剣を抜き、セバスチャンの背中を守るように周囲へ視線を走らせていた。 「セバス、次の接舷までに火皿を直せるか?」 「私を誰だと思っている。……五分で終わらせる」 二人の間には、友情を超えた、冷徹なプロ同士の「信頼」という名の残心が宿っていた。
「マルコ、三隻の動きを追え。……全員、武器を置くな。パナマに着くまでは地獄の続きだ」 ロドリーがブロードソードの血を拭い、鋭い指示を飛ばす。
その背後で、カルロスは再びトメを守るように座り込み、ベアトリスは静かに次の点火準備を整えていた。
朝焼けの海。 セバスチャンの銃を整備する音と、フェルナンドが剣を振るう音だけが、静かな波音に混じって響いていた。
