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関ヶ原の戦いは何故野戦になったのか?

戦国時代末期になると、長篠の戦いや小牧・長久手の戦いのように、火縄銃の普及や野戦築城技術の向上によって、攻撃側が不利になるケースが増えてきます。

事実、小牧・長久手の戦いでは両軍が膠着状態となり、大規模な決戦は行われませんでした。

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原では
● 東軍:約75,000〜80,000人
● 西軍:約80,000〜85,000人
ともいわれる大軍が激突し、日本史上屈指の野戦が行われました。

西軍は大垣城を中心とする第一線の防御拠点を放棄し、第二線である関ヶ原で東軍を迎え撃つことになります。

近年の研究では、関ヶ原周辺の要地に陣城や防御陣地が築かれていたことも明らかになっています。

一方、東軍は策源地から遠く離れた場所で大軍を維持しなければならず、補給面では不利な立場にありました。

そのため家康は、できるだけ早く野戦による決戦へ持ち込みたかったはずです。

では、何故西軍は有利な陣地を利用した持久戦を選ばず、自ら野戦を選んだのでしょうか。

はい、読者の皆さんと同じように、私も考えています。

西軍は内部に複数の離反の可能性を抱えていました。

時間をかければかけるほど、その危険は高まります。

有利な陣地で持久戦を行うことは軍事的には合理的でも、政治的には極めて危険でした。

その結果、西軍は東軍の望む野戦決戦を受け入れざるを得なかったのではないでしょうか。

そして、三成は野戦を選びました。

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