小説:「カルバートンの真実」英題:What Calverton Knew
あらすじ
オハイオ州カルバートン。小学校教師のエヴァン・マーサーは、クラスの子どもたちが次々と原因不明の体調不良を訴えていることに気づく。恋人で病院のアシスタント婦長を務めるローレンも、同様の患者が増えていることを感じていた。調査を進める二人の前に、製薬大手Nexom Pharmaと病院の間に隠された契約の存在が浮かび上がる。圧力、脅迫、そして裏切り。それでもエヴァンは真実を追い続ける。しかし真実には、必ず代償が伴う。
第1章 ありふれた一日
十月の朝は、カルバートンをやさしく包む。
エヴァン・マーサーは車のエンジンを切り、しばらくハンドルに手を置いたまま校舎を眺めた。レンガ造りの建物は古く、正面の時計台はもう十年以上、正確な時刻を示したことがない。それでも誰も直そうとしない。カルバートンとはそういう町だった。壊れていても、そこにあり続けるものを人々は愛した。
駐車場に車を停めると、すでに子どもたちの声が聞こえてきた。
「マーサー先生!」
振り返ると、三年生のタイラーが両手を大きく振りながら走ってくる。ランドセルが揺れ、靴紐が片方ほどけていた。
「タイラー、靴紐」
「あ」
少年はその場にしゃがみ、真剣な顔で紐を結び始めた。エヴァンは隣にかがみ、手伝ってやる。冷たい朝の空気が頬に触れた。
これが好きだった。
教師という仕事の、どんな言葉にも変えられない部分。子どもの靴紐を結ぶ、ただそれだけの瞬間に、自分がここにいる理由を感じた。
職員室に入ると、同僚のパトリシアがコーヒーメーカーの前で腕を組んでいた。五十代半ば、この学校一筋三十年のベテランで、カルバートン小学校の生き字引きのような存在だ。
「また壊れてる」と彼女は言った。
「三日に一度は壊れるのよ、あのポンコツ」
「買い替えの予算は?」
「去年も却下。今年も却下。来年も多分却下」
エヴァンは苦笑しながら自分のマグカップを棚から取り出した。
窓の外では子どもたちが運動場を走り回っている。オハイオの十月は空が高く、光が斜めに差し込む季節だ。エヴァンはその光の中を走る子どもたちをしばらく眺めた。何気ない朝だった。昨日と同じで、明日とも変わらないはずの朝。
後になって彼は思う。あの朝、何かが変わり始めていたのだと。
一時間目はオハイオの歴史だった。
エヴァンが教室に入ると、二十三人の子どもたちが席についていた。いつもより静かだ、と彼は思った。気のせいかもしれない。十月の月曜日は子どもたちも少し重い。
「おはようございます」
「おはようございます」
声が揃わなかった。これも気のせいかもしれなかった。
授業を始めて三十分ほど経ったころ、前列のエマが手を挙げた。色白で、おさげ髪の、いつも真っ先に手を挙げる子だ。
「先生、頭が痛いです」
「熱はある?」
エマは首を横に振った。エヴァンはおでこに手を当ててみた。少し温かい気もするが、はっきりとはわからない。
「保健室に行こうか」
エマはランドセルから筆箱だけ取り出して、静かに席を立った。
二時間目が終わったころ、今度は窓際のケヴィンが「気持ち悪い」と言って顔を青ざめさせた。エヴァンが背中をさすると、少年は唇を結んだまま小さくうなずき、ゆっくり立ち上がった。
三時間目の途中では、双子のソフィアとノアが相次いで「頭が重い」と訴えた。二人は普段、授業中に弱音を吐くタイプではない。それだけに、エヴァンは少し立ち止まった。
その日の午前中だけで、保健室に向かった子どもは四人になった。
放課後、エヴァンは職員室の自分の机で採点をしながら、スマートフォンを手に取った。
「今夜、会える?」
ローレンからのメッセージだった。
彼は少し笑った。会えるかどうかではなく、会いたいかどうかだ。答えは決まっている。
「何時でも」
既読がついて、すぐに返信が来た。
「七時。うちに来て。パスタ作る」
エヴァンはスマートフォンを置き、また採点に戻った。窓の外はもう夕暮れに近い。オレンジ色の光がカルバートンの屋根を染めていた。
穏やかな一日だった。
ただ、保健室に行った四人の子どもたちのことが、頭の片隅に残っていた。
ローレン・ベネットのアパートは病院から徒歩十分の場所にあった。カルバートン総合病院でアシスタント婦長を務める彼女は、長い夜勤明けでも翌朝には白衣を着て病棟に戻る。そんな人間だった。エヴァンはそこが好きでもあり、時々心配でもあった。
エヴァンがドアをノックすると、「開いてるよ」という声が中から聞こえた。キッチンからにんにくの香りがした。
「お疲れ」とローレンは言った。エプロン姿で、髪を無造作にまとめている。仕事終わりの疲れが目の下にうっすら滲んでいたが、笑顔は明るかった。
「お疲れ」とエヴァンも言った。
彼女の隣に立ち、鍋をのぞき込んだ。白ワインとオリーブオイルの香りが混ざっている。
「病院はどうだった?」
「普通」とローレンは答えた。しかし少し間があった。「まあ、普通かな」
エヴァンはその間を聞き逃さなかったが、何も言わなかった。彼女が話したければ話す。それが二人のやり方だった。
ワインを一杯飲みながら、エヴァンは今日の話をした。保健室に行った四人の子どもたちのこと。
ローレンはパスタをかき混ぜる手を止めた。
「四人? 同じクラス?」
「同じクラス。頭痛と軽い熱」
「何年生?」
「三年生」
ローレンはまた鍋をかき混ぜ始めた。しかし今度は、何かを考えているような沈黙だった。
「うちでも今日、子どもが二人来たよ」と彼女は言った。「近所の小学校から。同じような症状で」
エヴァンは手にしたワイングラスを置いた。
「別々の学校から?」
「うん」
二人はしばらく黙った。キッチンの換気扇が低く回っている。窓の外ではカルバートンの夜が静かに広がっていた。
「きっと季節の変わり目だよ」とエヴァンは言った。
「そうだね」とローレンは言った。
どちらも、そう信じようとしていた。
