『気配』⑩
第10章 それは、もう“わたし”だった
① 体の動きが他人のように見える
窓辺に立ち、コップを持ち上げたとき――
その動きが、まるで“誰かの癖”のようだった。
手首の返し、指の角度、呼吸の深さ。
どれも自分のもののはずなのに、
“他人の所作を真似している”ような違和感があった。
鏡に映る姿は変わらない。
けれど、鏡の中の自分は、
“わたし”ではなく、“誰かになりきった存在”のようだった。
誰に、なった?
いつ、なった?
その問いは、もう意味をなさなかった。
ただ、そこにいたのは――“もう、わたしではない”わたし。
② 「わたし」という言葉に違和感
誰かに説明しようと、「わたしは」と口にした瞬間――
その言葉に、微かな抵抗を感じた。
いつも使ってきたはずの一人称。
けれど、その響きが、**「名乗ってはいけない何か」**に触れてしまったようで、
喉の奥でひりついた。
「わたし」――それは本当に今、
自分を正しく指し示している言葉なのか?
口に出すたびに、
その音が空気の中で少しだけ宙づりになる感覚があった。
自分を名乗ることが、
誰かを名乗ることと、ほとんど区別がつかなくなっていた。
③ まばたきが戻らない
ある瞬間、まばたきをした。
いつもと同じ、ほんの一瞬の動作。
だが――目を閉じてから、しばらく視界が戻らなかった。
光も、色も、輪郭もなかった。
ただ、“目を開けようとしている感覚”だけが宙に浮いていた。
やっとのことで視界が戻ったとき、
そこにあった景色が、数センチずれていた。
自分の“今”と、“視界”の重なりが、
完全には一致していなかった。
もしかしたら、
まばたきの間に――“別の誰かの視界”が、ここに挟まっていたのかもしれない。
④ 気配が自分の影に溶けていた
夕暮れ、背中に長く伸びた影を見たとき、
その中に、“もうひとつの存在”が混ざっていた。
最初は、風の揺らぎだと思った。
でも違った。
影の形が、自分の動きと“微かにズレていた”。
手を上げると、影はワンテンポ遅れて動く。
首を傾けても、影は少しだけ重たく沈む。
それは、あの“気配”だった。
ずっと部屋の隅にいた、あれ。
呼吸の背後に感じていた“何か”。
それが今――
自分の影として、溶け込み、定着していた。
⑤ 心音が、聞こえない
静かな夜。
枕に耳を押し当てて、心音を確認しようとした。
でも――何も聴こえなかった。
拍動も、振動も、血の音もない。
耳をすませても、胸を押さえても、
「生きている証」が感じられなかった。
不安にはならなかった。
むしろ、静かすぎるその無音が、しっくりきた。
なぜなら、
その静けさは――**“わたしのものではなかった”**から。
心音のない身体に、
わたしが住んでいるのではない。
“わたし”が、心音のない何かに、住まわれていた。
⑥ 他人の名前に反応してしまう
誰かが、別の名前を呼んだ。
通りすがりの会話の中で。
テレビのニュースの中で。
SNSの通知音の中で。
それなのに――
その名前に、身体が反応した。
振り返り、心が微かに波打つ。
なぜその名前に、“懐かしさ”を覚えたのかわからなかった。
まるで、それが**“かつての自分の名前だった”**かのように。
あるいは、“もうひとつの自分”が今もそう呼ばれているかのように。
記憶にはない。
でも、“その名を生きていた感覚”だけが、
胸のどこかで微かに鳴っていた。
⑦ 誰もいないのに“返事”してしまう
家の中で、ふいに呼びかけられた気がして、
「はい」と、声が出た。
でも、誰もいなかった。
音もなかった。
ただ、呼ばれたと確信できる気配だけが、空間に残っていた。
声は出したはずなのに、
返事をした自分の声が、
“他人のもの”のように聴こえた。
その声が誰のものだったのか、
次第にどうでもよくなっていった。
返事とは、
相手の存在を受け入れる行為。
でも今は、
**“わたしがわたしに応答している”**気がした。
⑧ 「あの人に、似てきたね」と言われた
久しぶりに会った誰かに、
ふいにこう言われた。
「なんか、あの人に似てきたね」
その「あの人」が誰なのか、はっきりしなかった。
でも、どこかで聞いたことのある名前だった気がした。
そして、言われた瞬間――
鏡に映る自分の輪郭が、微かに変わった気がした。
目の形、笑い方、息の音。
どれも、少しずつ、“かつての気配”と一致し始めていた。
もしかすると、
あの気配は、“その人の名残”だったのかもしれない。
そして今のわたしは――
その名残が“形を持ち直した存在”なのかもしれなかった。
⑨ それは“わたし”になった
部屋の中に、もう“気配”はなかった。
見えない視線も、遅れて動く影も、耳鳴りもない。
でも、何かが**「違う」**と感じた。
それは、気配が消えたからじゃない。
**“気配が、わたしそのものになった”**からだった。
もう、どこにも境界がなかった。
目も、手も、心も、
全部が、“わたし”であり、“それ”でもあった。
違和感は、なかった。
むしろ、やっと辿り着いた場所にいる気がした。
気づかないふりをしていた存在と、
今、完全に重なっていた。
⑩ 気配は消えた。
それとも、それが“わたし”だったのか?
あの静けさが戻ってきた。
風の音も、家鳴りも、時計の針の音も――
すべてが、最初に戻ったように静かだった。
でも、どこかが違っていた。
音が遠い。
光が柔らかすぎる。
身体が“外側から着ている服”のような感触。
気配は、もうどこにもいない。
でも、完全にいないとも言い切れなかった。
――「気配が消えた」のではなく、
「気配が、わたしになった」のかもしれない。
最初からいたのかもしれない。
“わたし”と名乗る前から、
“わたし”になろうと、静かに寄り添っていたのかもしれない。
そう思った瞬間、
自分の名を、そっと心の中で呼んでみた。
その声は、少し低く、
懐かしいような気がした。
あとがき
僕は小さい頃、鍵っ子でした。
誰もいない家に入るのが、とにかく怖かった。
柱の軋む音、冷蔵庫の唸り、ドアの揺れる音――
ただの生活音のはずなのに、当時の僕には「何か」が潜んでいる気がしてならなかった。
小児喘息を持っていたこともあって、学校を休むことが多く、
家でひとり、息を切らしながら、
その「何もいないはずの空間」に耐えていました。
苦しくて、怖くて、よく泣いてました。
大人になった今も、あのときの空気の重さを忘れられません。
『気配』という作品は、そんな僕の記憶から生まれました。
幽霊や怪物なんかじゃない。
ただ、“見えないけど、確かにそこにいるもの”を描きたかった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
この作品が、誰かの記憶の奥に、そっと寄り添えたなら嬉しいです。
――静月(開 堤互)
※note創作大賞2025では、12ジャンルすべてに作品を投稿しています。
形式は違っても、すべての物語に、ひとつの風が吹いています。
それは、“感情”という名の風。
この物語もまた、その中にあります。
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