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連載ファンタジー小説『スピの森』⑫

第12章 白い鹿、涙の記憶


森の奥へ進むにつれ、空気が変わっていくのがわかった。
風は凪ぎ、木の葉一枚すら揺れず、鳥の囀りも止み、世界が音を忘れたようだった。
足元の土は湿り気を増し、踏みしめるたびにかすかに水分を含んだ低い音を返す。
見上げれば、木漏れ日が斑点を作り、その光は静止画のように動かない。
アリトは立ち止まり、呼吸を浅くした――この静けさを壊すのがためらわれた。

薄い霧が谷間に流れ、そこから乳白色の光が漏れていた。
その中央に、ひとつの影が立っていた。
それは――白い鹿。
雪をかぶったような純白の毛並み、細く長い角は月光を削り出したような輝きを放ち、瞳は澄んだ湖の底を覗くような深さを湛えていた。
鹿は逃げることも威嚇することもせず、ただアリトをまっすぐ見つめている。
その視線に触れた瞬間、胸の奥で古びた鍵穴が静かに回る感覚があった。

――そして、景色が変わる。


目の前に広がったのは、幼い日の森。
まだ自分の背丈は低く、草花が肩より高い壁のように並び、風に揺れていた。
夕暮れ前、空は金色と薄紫の境目を漂い、その中でひとりの少年――過去のアリトが立っている。
小さな両手を胸の前で握りしめ、息を吸い込んだその瞬間、
「大きくなったら、ずっと笑っていたい」
その声は風に乗って消え、誰にも届かないまま森の奥へ沈んでいった。

だが白い鹿は、その言葉を忘れずに抱えてきたらしい。
まるで「あの日の君は、まだここにいる」と告げるように、再び現実の景色が戻る。


鹿はゆっくりと歩み寄り、額をアリトの胸に寄せた。
温かい。
その温もりは皮膚だけでなく、骨の奥まで沁み込むようで、胸の鼓動が鹿の鼓動とゆっくり重なっていく。
耳の奥に、言葉ではない何かが響いた。
『在ることに、理由はいらない』
それは意味を超えて感覚で届く言葉だった。息を吸うたびに、その静けさが肺いっぱいに満ち、過去も未来も形を失っていく。

「俺は……何かになるために生きてきた。でも、本当はもう“在る”だけでよかったんだ」
その想いが、背骨の奥にひとすじの熱として落ちた。
涙が自然とあふれる。それは悲しみではなく、長く抱えてきた「足りない」という痛みが、ようやく森へ返された証だった。


鹿は振り返らずに霧の中へと消えていく。
追わなくても、もうこの存在は胸の内に在る。
霧が晴れた先に見えるのは、森の最深部への細い道――物語の核心へと続く扉だった。


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